見出し画像

2005年05月12日(木)

「あの、ま、待ってください」
「ほう、こんなところで誰かと会うとは。どうかしましたか?」
「歩けなくなってしまって」
「そうですか、じゃぁここが君の寿命なのかもしれん」
「じゃぁ、私はここでもう死ぬんですか?」
「それは私が決められることじゃない。私だけじゃない、君以外の誰も決められることじゃぁない。君次第なんだろう」
「私は死にたくなんてありません。こんなところで死ぬために、ここまで必死に歩いてきたわけじゃない」
「なら話は簡単だ、生きたいのならば生きられるだけ生きればいい」
「でもじゃぁ、どうしろというんですか」
「それはどうしたら生きられるかということを私に問うているのかい?」
「はい」
「私と君とは別の人間だ。だから、私の方法が君に当てはまるとは到底思えない。つまり君自身が君だけの答えを出す他に術はないのだよ」
「それができるなら、こんなところでしゃがみ込んでいたりしません。それができないから、私はここに座り込んでしまった」
「じゃぁ立ち上がってみればいい」
「どうやって?」
「君のその足をまず、大地に立てればいい」
「そんなこと、そんな分かりきったことを聞くために、私はあなたに声をかけたんじゃありませんよ。私の足はもう擦り切れて、これ以上歩くなんて無理なんです」
「いや、同じことだよ。君が君の足を、この大地に立てる、何もかもはまず、そこから始まるのだから」
「…」
「君はきっと、長いこと靴を履いていたのだろう?」
「ええ、履いていました。旅に出る前に、丈夫な靴をちゃんと用意して。だからここまで歩いて来れました」
「それは多分、違う」
「何が違うんですか?」
「何かの助けを借りることは、決して悪いことではない。けれど、その助けに寄りかかってしまったら、それはもう、助けではないのだよ」
「じゃぁ何だと?」
「しいて言葉を選ぶなら、依存、とでも言おうか」
「…私は靴に依存しながら歩いてきたとおっしゃるのですか?」
「たとえばの話だがね」
「…」
「そうして歩いていると、いつのまにか足は、土の感触を自ら忘れてゆく。そして気づいた時にはもう、靴なしでは歩けなくなっている」
「…」
「私の言っている意味が分かるかね?」
「…分かるような分からないような」
「それでいい。あとは君が君自身で答えを探し出すべきだ」
「…」
「ほら、見てご覧」
「はい?」
「今君が座り込んでいるこの場所は、この大きな樹が日陰を作っている。樹は何を頼まれたわけでもないのに君の上に日陰を作り、君を休ませている」
「…」
「君はここに寝転んでみたことはあるかい?」
「いいえ、ありません」
「じゃぁ立ち上がる前に一度寝転んでみるといい」
「何故ですか?」
「寝転んでみれば、全てが分かる。」
「あの、あなたはもう、先に行かれてしまうのですか?」
「もちろん。私はまだまだこの道を歩いていくつもりだ」
「こんな険しい道であっても?」
「ほほ、このくらいの険しさ、どうということはない」
「…」
「じゃぁ唯一、私がここまで歩き続けて来る中で知ったことを君に伝えよう」
「教えてください、それは何ですか?」
「心の目だよ」
「心の目?」
「そう、心の目。心の目を養うといい。さすればおのずと世界が見えて来る」
「…」
「見つめてご覧、ただじっと。そうしたら今度は、その目を閉じて耳を澄ますといい」
「…」
「世界は、内にも外にも、無限に存在しているものだ。そしてそれは君の心の目、心の耳次第で、いくらでも姿を変えるだろう。今君にはこの道が険しく荒れた地に見えているだろう、しかし、君の心の目を開き、耳を澄ましたとき、きっと君は知るだろう、この場所の本当の姿を」
「…」
「では私は先に行かせてもらうよ」
「…」
 やがて老人の姿は遠ざかり、最後、豆粒のように小さくなったその背中は、地平線の向こうに消えた。
 君はまた、ひとりになった。この荒地で、靴も破れ、自分にはもう、何もなかった。喉が乾いて口の中が乾いて、もう声を出すのも億劫だった。
 見つめてご覧、ただじっと。そうしたら今度は、その目を閉じて耳を澄ますといい
 老人の言葉を信じたわけじゃぁなかった。そんな言葉を信じることができるほどの余裕など、もう君には残っていなかったから。でも他に何が今できるというのだろう。君はやけくそになって大地に寝転がった。
 真っ青な空。そこに在ったのは、真っ青な空だった。君は驚いて起き上がる。前を向いて歩くことにばかり自分を費やしていたときに見えた地平線近くの空は、砂埃でけぶっていて、青いどころか黄土色に近い色だった。今もやはりその辺りの空は砂埃でけぶっている。君は再び大地に横たわる。そして見えるのは、澄み渡る青い青い空なのだった。
 君は老人に言われたとおり、ただじっと空を見つめた。いつのまにか時が経つのも忘れ、君は見つめ続けた。そして、ゆっくりと瞼を閉じた。
 君の耳に最初に届いたのは、遠く遠くで響く鳥の囀りだった。瞼を開けていたときには気づかなかったその小さな小さな囀り。君は今、その耳で聴く。
 そして今自分が横たわる脇に立つ大樹の、葉々のざわめきが、君の耳に落ちてきた。ざわわ、ざわわと葉と葉のこすれ合う音、そして初めて君は気づく、風が吹いていることに。そして君は深く息を吸い込んだ。やわらかな風の匂いが胸いっぱいに広がる。君は両目を閉じていた。けれども、君の心の目は今、君の体から飛び立ち、世界で羽ばたいていた。君の耳は羽ばたく君の目と共に、世界で踊っていた。
 どのくらい時間が経ったのだろう。君がようやくその瞼を開け、体を起こした時には、もう空はずいぶん暮れかかっていた。今君の目の前に広がるのは、確かに荒地だ。もうさんざん見飽きた、もうこれ以上歩くことなどできないと君はここで膝を折った場所だった。けれど今再び君の目の前に広がるこの荒地は、確かに同じ荒地だけれども、同時に、全く違う世界だった。君はもう、知っていた。この荒地の先に待つものを。そしてこの全くの荒地にも息づく幾つもの命の存在を。
 君はゆっくりと立ちあがった。自分の足でしっかりと。そして、君をずっと守り見つめていた大樹をそっと抱きしめた。瞼を閉じ、君は今、心の目と耳とで聴く。大樹がとくとくと息づくその命の音を。
 そして君は歩き出した。地図なんてもう、必要なかった。君はただ、心の目を開き心の耳を澄ませば、それでよかった。すべてはこの目と耳が知っている。

 やがて君の姿は地平線の向こうに消えた。大樹はそれをずっと見つめていた。黙って、じっと黙って、君を見つめていた。そして、君に聞こえただろうか、大樹の唄が。大樹は唄っていたんだ。君へと。君はもう、ひとりじゃぁない。世界はいつだって君の中に無限に広がっている、と。

ここから先は

0字
クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

よかったらサポートお願いいたします。いただいたサポートは、写真家および言葉紡ぎ屋としての活動費あるいは私の一息つくための珈琲代として使わせていただきます・・・!