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2005年03月29日(火)

 きっと澄み渡る空を見ることができるはず、と思い込んで目を覚ました朝。カーテンがどんより垂れ下がっている。もしや、と思い窓際に駆け寄りカーテンを引くと、雲はまるで街に支えられているような暗さと低さ。一気に私の心がしゅぅぅぅっと音を立てて萎む。これじゃあきっと娘もがっかりするだろうなと思いながら娘を起こすと、やっぱり彼女は下を向く。つまんない。その一言がすべてなんだろう。二人してがっかりしながら、朝の仕度をする。せめてアネモネの花の色を見て元気になろうかとベランダを覗くが、日の光が殆ど降り落ちてこない天気では、アネモネもみな花びらを閉じている。
 そんな憂鬱加減を吹き飛ばすかのように、娘が自転車の後ろで歌い出す。歌は「手のひらを太陽に」。太陽は出ていないけれども、娘のあまりの大きな歌声に、多分太陽もびっくりして、雲の向こう、苦笑してるんじゃぁなかろうか。途中から私も彼女に合わせて歌う。
 久しぶりにMと会う。この半年というもの、次々置かれている環境が変化し続けている彼女だが、疲れたなどという素振りは一切見せない。いつ会っても彼女は若竹のようにびんとし、場合によってはすぱんときれいな切り口でもって割れてみせてくれる。だから彼女と話すと自然にこちらにも力が漲ってくる。それは決して押しつけがましいものではなく、自然にこちらに伝染してくるような具合だから、なおさらに心地いい。
 鴎ってさ、遠くから見るのがいいよね。どうして? だってさ、近づいて顔を露骨に見ちゃうとあんまりかわいくないじゃん。わはははは、確かにそうだけど。こうやって離れて見てると、あの白い翼も身体も美しいわぁなんて思って見惚れてられるけど。でも私、鴎は鴎で結構好きだけどなぁ。いや、嫌いって言ってるんじゃないよ、何せ海猫だしね。あ、ほら、あっち、セキレイだ。セキレイってお尻がかわいいよねえ。ぷりぷり振って歩くんだよねぇ。ねぇ、あのモクレンの枝に止まってるのってもしかしてメジロじゃないの? えー、こんな街中にはメジロはいないんじゃない? でもほら見て、メジロだよ、やっぱり。うわー、本当だ。この辺りの鳩って肉付きいいよねぇ、餌がたくさんあるんだろうな。自然の餌はないけど、みんな自分のパン屑とかあげちゃうんだよね、でも私、鳩は苦手。私はどうでもいい、わはははは。話が途切れない。何処までも続く。どうでもいいような内容が殆どなのだろうけれども、そういった話をしながら、私たちはお互いに、相手の声音に聞き耳を立てている。ちょっとでも様子がおかしいと、どちらともなく突っ込み合う。そんな関係。
 今自分の周りにいてくれる女友達を省みるとき、私はいつも、自分を幸せ者だなと思う。彼女らはみんな、私がパニックを起こそうと記憶を飛ばそうとリストカットを繰り返そうと、微塵も動じずにそばにい続けてくれた友人たちばかりだ。MにしろAにしろSにしろ…。事件を経てPTSDを抱え込むようになってから、離れていった友人がどれほどいたことか。その中に、私が当時大切にしたいと思っていた友人たちもたくさん含まれていた。この人とは生涯友達でいたいと、その当時は思っていたから、だから、彼女らが離れていったとき、私は絶望に近い気持ちを味わった。けれど、ほんの僅かではあるけれども、私のそばに残ってくれた友達がこうして存在する。幾つもの篩を潜り抜けて、最後の最後まで超然と存在し続けてくれた彼女たち。どれほど感謝しても足りない。そして、そういった友人を私が今持つことができているということを振り返ると、あの事件やPTSDも、捨てたもんじゃないなと思うことができる。ああした経験を経たからこそ、今こうして彼女らと思いきり馬鹿を言ったりやったりできる。私のどうしようもないところも含めてしっかり私を見続けていてくれる友達だからこそ、私は安心してそばにいることができる。そしてまた、彼女らに負けないくらいかっこいい女になりたいなぁとも思う。
 おかしなことを言うようだけれども。私は、今はまだ、男性の為に美しくなる、というのは怖い。恐怖を感じる。事件に遭う前、私は自分が女であることをとても誇りにしていた。女に生まれてよかったと心底思っていたし、自分の女性性を磨くことに対して躊躇いなどこれっぽっちも感じなかった。けれど、事件を経、PTSDに翻弄されるようになって、私は、男性の為に美しくなることに恐怖を感じるようになった。自分の女性性を磨きなどしたら、また同じ種類の事件に遭うんじゃないかと思えた。実際はそんなこと、犯罪に遭う遭わないなどには無関係なのだろうけれども、それでも、ほんのちょっとでも可能性があることならば、私はそれを否定したかった。
 今もまだ、恐怖はある。だから、仕事の都合で一対一で男性とやりとりするときなど、私は口紅の一つさえ引くことができないほど緊張する。この歳にもなったら化粧は女の礼儀のひとつだと思ったりもするのだけれども、恐怖や緊張の方が上回り、私は結局、顔色が悪くてもすっぴんを晒してしまう。自分はこの程度の女だから襲ったりしないでね、そんな魅力もないでしょ、とまるで露骨に示したいかのように。
 でも最近、ようやく、自分の周りにいてくれるかっこいい女友達たちのおかげで、ちょっときれいにしなくちゃな、と思うことができるようになった。異性の為にきれいになろうとすることにはいまだ強い拒絶を示してしまうけれども、ちょっと方向を変えて、周りにいてくれる女友達や娘の為に、そして何よりも自分自身の為に、ほんのちょっとくらいきれいになろうとしてみてもいいんじゃないかと、僅かながら思うようになった。だから、ついこの間も、娘にとって恥ずかしいお母さんじゃぁいけないよな、と、口紅を引いてみたりした。まだそれを日常的に用いることはできないけれども、少しずつ少しずつ、自分の中に余力が出てきたんじゃなかろうかと思う。
 いきなりひとっとびに、二つ三つ上の階段に飛び乗ることはできないけれども、一歩ずつ、いや、半歩ずつでも、前に進むことができるなら。やってみる価値はある。そうやって僅かずつでも、自分の世界を広げてゆくことができるなら。
 今日も寝つきが悪くなかなか眠ることができなくて、最後泣き出した娘の身体にそっと手を回しながら、私は歌を歌う。ゆっくりめに歌う。娘が鼻水をすすりながら聞いている。やがて鼻水をすする音が途絶え、かわいい寝息が聞こえて来る。私は眠り始めた娘の頬に、軽くキスをする。
 おやすみ。また明日ね。
 そして私はいつもの椅子に座る。窓の外、夜闇が色濃く垂れ込めている。そんな、夜。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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