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2005年05月18日(水)

 目を覚ます。昨日はどんなふうに横になったのだったか。確か缶ビールを半分くらい飲んだら酔っ払って、プリントを焼こうとお風呂場に準備をした辺りでへたってしまったような、そんな記憶が微かに残っている。試しにお風呂場へ行ってみる。やっぱり。引伸機が怒ったような顔をしてじっと待っていた。だから私は、すみませんと頭を下げて、もとの場所へ片付ける。
 強い風。去年もこんなに風の勢いが強かっただろうか。いや、そういう記憶は残っていない。ということは、今年がやけに風が強いということなのだろうか。風も何かを察知しているのかもしれない。音もなく徐々に崩れゆく世界の輪郭を、必死に保とうと、吹き荒れているのかもしれない。
 薬を飲んで、しばらく床にぺたんと座って歌を聴いてみる。活字はまだ追えないけれど、音ならば、歌ならば、この耳で聴くことができるようになった。幾つか選んだ曲を繰り返し流し続けているので、気づけば歌詞は殆ど覚えてしまった。これが時々役に立つ。外に出かける折、これらの曲を突っ込んだMDを持っていれば、人の声が突き刺さってきそうな気配を感じた途端、自分の耳をこれらの唄で塞ぐことができる。
 そうだ、花たちはどうなっているだろう、突然その思いが浮かんできて、私は慌てて立ち上がりベランダに出る。あぁ。かわいそうに、あまりの強い風で、薔薇たちは自らの棘で自らの体を傷つけている。新しく芽吹いたはずのやわらかい葉たちがみな、ぼろぼろになっている。悲しくてその葉を撫でる。撫でてももう、元には戻らない。分かっているけれど、それでも撫でてしまう。
 風からその身を隠すようにして咲いている大輪の薔薇たち。縮こまって縮こまって、その姿はまるで、私を見つけないで、と呟いているよう。私は顔を近づけて、香りを胸いっぱいに吸い込む。今年も会えたね、そう話しかけながら。
 黄色の薔薇もピンクの薔薇もクリーム色の薔薇も白の薔薇も赤の薔薇も、みながみな、この風のせいで自らの棘で自らの体を傷つけている。いくら撫でても足りない。私はだんだん途方に暮れてきてしまう。どうやったら彼らを守ることができるのだろう。それとも、守りが必要だと思っているのは私だけ? 彼らはこんなふうになってしまうことさえ自然の摂理だと受容しているのだろうか。だとしたら、私が今できることは何?
 だんだんと自分の境界線が歪んできているのを感じる。でも、いくら歪んだとしても、私はこの立ち位置を失うわけにはいかない。私は私が愛する者たちを守り抜きたい。だから、いくら歪んでいったとしても、ここから動くわけにはいかない。

 午後、畳の上で毛布に包まってしばし丸くなる。洗濯と掃除機かけと少々の料理をしただけでこんなにぐったりなってしまうなんて。自分の体力のなさに嫌気がさす。とぶつくさ文句を言っても何が解決するわけでもなく。なのでおとなしく丸くなっている。何となく、貝になった気分。耳を澄ましたら、潮騒の唄が聞こえたらいいのに。

 そうして一日はあっという間に過ぎてゆくのだ。今日という一日が。気づけば夕焼けの時間はとうに過ぎ、もう外はすっかり闇色に。夕刻、燃え盛る太陽をじっと見つめた。今もまだおぼろげに、その燃火が私の網膜に残っている。太陽の残像。そしてそれを覆い隠そうとやっきになる鼠色の雲の群れ。通りの街路樹は右に左に枝葉を揺らし、それは止まることを知らず。
 太陽よ、おまえはどんな血の色をしている? 私と同じ紅い色? でも、私の血が紅い色だなんて、誰が証明できよう。切り刻んだ腕から滴る血が描く雫は確かに紅色だけれども、だからって私の全身が紅のような血を持っている証拠にはならない。
 死ぬ前に見てみたい。私の全身を細かく流れる血全ての存在を。それが間違いなく紅色であったならば、私はもしかしたらそのときようやく、安心して眠りにつけるのかもしれない。あぁ、私は間違いなく人間だった、と。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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