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2009年10月11日(日)

カーテンの向こうはまだ闇の中。いつもより少し早く目が覚める。時間もまだある。昨日疲れて洗えなかった髪を洗うことにする。
強くて熱めのシャワーを頭から浴びる。眠気はもう何処へやら、いっぺんに消えた。顔を洗い髪を洗い身体を洗い。もし髪の毛を乾かす手間隙がなければ、私はもっと髪の毛を伸ばしていただろうなぁと思う。ドライヤーが苦手な私には、乾かす作業は一苦労なのだ。そうこういいながらも、いつのまにかもうすぐ腰に届く。このまま伸ばすか、それとも思い切って切るか、ちょうど迷っているところ。せっかくだから、腰を越えてもう少し伸ばそうか、とも思っている。

娘がそばにいない日。でも心の中にいつも彼女はいて、だから私は今日も心の中の彼女におはようと声をかける。にっと笑った時の顔を思い出し、私も少し笑う。仕事で離れている時、この、にっという彼女の顔は、私のお守りのようなものだ。

小さな町の小さな美術館。それが美術館だと気づかないで通り過ぎてしまいそうになるほどこじんまりとした美術館で、その写真展は為されていた。扉をくぐると、写真家のファンの人たちが入り口に溢れている。私はその間をぬって券を買い、順繰りと作品を見始める。銀塩の、プリント独特の色が厚みが、額縁を通してこちらに迫ってくる。チャップリンの写真、シュバイツァーの写真、水俣病の写真、その間に彼の写真が表紙を飾った雑誌や写真集たちがガラスケースに収められて飾られている。窓から撮っただけの風景や炭鉱夫の写真などもある。でも。私は入り口にあった、幼い子供を写した写真が、どうしても心に残る。何度もその場所へ戻り、私はその写真たち二枚を見返す。写真の持つ力が、私の心を捉えて離さない。有名なテーマを取り上げた写真よりも、私にはこちらの方が心にじっくりと迫ってくる。

大きな大きな池のほとりに建てられた美術館は、建物自体は大きいわけじゃない。しかし、後ろからこちらに流れ来る雲の勢いに乗って、まるでこちらに迫ってくるかのような風貌をしている。もし今モノクロ写真でこの建物を撮ったなら面白いだろうなぁと思う。
そうして入った美術館。ぎょっとした。こんな個人のコレクションが日本にあったとは。ダリの彫像が所狭しと飾られている。一番入り口にあるのは不思議な国のアリス。そしておなじみの溶けた時計。白鳥と象とを一体化したような灰皿。人体を引き出しに見立てた像。ここまでたくさんのダリの彫像を見たことがあっただろうか。私には確かそういう経験はないはずだ。あまりにたくさんありすぎて、頭がくらくらしてくる。しかし面白い。だから私はふらふらしながらも会場を次々回る。絵画よりずっと彫像の方が私には面白くて、何度も同じフロアを往復する。池に面した側の壁にはたくさんの窓があり、自然光が漏れてくる。その効果がまたいい。美術館を出ても、頭の中はダリの彫像がありありと浮かび、それはまるで津波に襲われたかのごとくの印象で、私の中に刻まれた。多分またここを訪れることになるだろう。そう思う。

水彩画家の作品と改めて対峙する。繊細な線だが実に厚みを持った画面で、それはこちらに迫り来る。特に雲や光がいい。雲を特に観察してスケッチしたものが飾られてもいたが、それだけ画家がこだわったのだろう。作品の中でその効果は実によく現われている。また彼が当時の流行から試みた絵葉書も並んでいた。小さな画面の中、実に生き生きと人や風景が描かれている。それにしても、この絵の厚みは何処からくるのだろう。絵の具を重ねたというわけではない。描き方や塗り方は実にあっさりとしているのだが、何かが肉厚で、それが私たち見るものに迫ってくるのだ。それが何なのか私はすぐに分からない。これはとりあえず宿題だなと、頭のノートにメモをする。会場には老夫婦が多く、中には手をつないで作品を共に鑑賞している方もいた。年老いて、そんなふうに伴侶と時を過ごせるというのはなんて素敵なことだろう、と思う。私にはありえない光景で、それは本当に本当に羨ましいこと。

そうして仕事を済ませ次の場所へと進もうとしたとき、激しい雨が降ってきた。これでもかというほどアスファルトを叩き、跳ね上がる雨。私はしばし雨宿り。どのくらいしただろう。雨がさっと止んで、私が歩き出すと、目の前に大きな大きな虹が。
誰もが声をあげ、誰もが立ち止まる。カメラを持つ人はカメラを構え、そうでない人もただただ虹を真っ直ぐに見上げる。それほど見事な円弧を描く虹だった。
私は思わず走り出していた。分かっている。虹の足元に辿りつくことなどできやしないことは。でも昔聞いたんだ、虹の足元に辿りつけたら夢が一個叶うって。だから私は駆け出す。荷物がかたかたと両肩で鳴る。それも構わず私は走る。少しずつ、少しずつ薄れてゆく虹。でもまだ足元は確かな色合い。もう少し、もう少し、信じて私は走る。あと少し。
そうして虹はやがて消えた。坂道を走り疲れて私はその場にしゃがみこむ。思わず笑い出す自分。
あぁ、今日は、いいものを見た。

濡れた草の上を歩く。両側には黄金色の稲穂。半ば倒れてそこに在る。もうすでに刈り取られた田では、鴉が集い、何かをつついて歩いている。雲が実に美しい。背泳ぎの格好の雲、羽ばたく鳥の雲、龍のような雲、綿菓子のような雲。もくもく、もくもくと、それぞれに空に浮かんでいる。雨上がりのそれは、豊かな色合いでこちらを向いている。そしてぐんぐんと流れゆく。おまえたちに構っている暇はないと言うが如く、ぐいぐい、ぐいぐいと。そうしてやがて、西日は傾き、地平に堕ちる。
私はそうしてまた家に戻る。電話をかければ娘の声。いつ迎えに来るの、と急かすような声。だから私も勢いよく応える。あと何時間でそっちに着くよ。迎えに行くよ。
ホームに電車が滑り込んでくる。これに乗ればあっという間に日常が戻ってくる。さぁ、帰ろう。そして娘に一番に、虹の話をしてやろう。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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