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2009年10月28日(水)

娘に何度も蹴られる。夜通し蹴られ続け、結局私は早々に起き上がる。一体何度蹴ったら気が済むんだと、思わず彼女の足をぱちんと叩いてしまった。それでもびくともせずに眠っている娘。感服してしまう。
西の空に雲が漂ってはいるけれど、今日も晴れるのだろう。そんな気配が辺りに満ちている。私はからりと窓を開け、胸いっぱい呼吸する。昨日の一仕事を終えて、ようやくひと心地ついたような気がする。私はベランダに出ていつものように髪を梳く。梳きながら薔薇を見やる。新芽をずいぶん出している。夏のうちに挿したものは殆どだめになったが、今月に入って挿した枝はみな新芽を出してくれている。この気候だ、このまま根付いてくれればいいのだが。
東の玄関に出てみる。東の地平にもまだ雲があり、朝焼けは望めそうにない。それでも、晴れるということが嬉しくて、私の心は弾み始める。今日の用事を指折り数え上げながら、アメリカン・ブルーを振り返る。今のところ無事新芽が顔を出している。これが萎れなければ大丈夫だろう。私はしゃがみこんで、新芽にそっと触れてみる。ぴんと立ったその芽が、私の指の腹をそっとそっと押し返す。

朝一番に友人から連絡が入る。電話を取ってみると、これからそっちに行こうかと言ってくれる。救われる思いでありがとうと告げ、では何時にと約束を交わす。それまでの間に荷物をもう一度確認しなければ。
額縁は十三枚。写真が十二枚にテキストが一枚。それからプリントアウトしたテキストが十部、芳名帖用のノートにボールペン、DMの残り少し、あとは写真集。それから搬入を手伝ってくれる女友達二人にお礼のお土産。全部持った。鞄に入れた。
改めて荷物を持ち、それがどれだけ重たいかを思い知る。額縁を買う時にガラスのものでなくアクリルのものを買えばよかったと、今更ながら少し後悔する。まさに今更。後悔したってもう遅い。とにかく運ぶしかない。そして。
今回は私だけの展覧会ではない。私と同じ犯罪被害者の、参加してくれたみんなの気持ちが私の肩に圧し掛かる。今年で三年目を迎えるけれど、その重みは年々大きくなる。重くなる。彼女らと関われば関わるほど、彼女らに対しての責任を感じる。
彼女らが書いてくれたテキストは、プリントアウトした十部と写真集の中に在る。写真集とプリントアウトした用紙、それだけを見たら大した重みはないかもしれない。でも。実際持ってみれば分かる。それは十三枚の額縁と同じくらい重い。彼女らの、想いが詰まっている。だから重い。
駅に着くと早々に友人らが迎えてくれる。私も混雑した乗り物が苦手だけれど、それは彼女らだって同じだ。彼女らもそれぞれ、過去に重い傷を背負っている。それでも今回の搬入の手伝いを快く引き受けてくれた。本当にありがたい。電車の中、何度か頭がくらくらする。多分人酔いしているんだ。でも、今日は友人らがいる。いてくれる。彼女らだってきっと私のようにふらふらしているはず。だからこそしっかり立たねば。彼女らがいてくれるということが、私を強く強く支え後押ししてくれる。
約二時間かかって会場の喫茶店へ。書簡集の入り口はとても小さい。小人の家の扉のようだ。もう何年展覧会をやらせてもらっているだろう。その展覧会のたび、誰かしらが扉に頭をぶつける。私はそのことを思い出しながら扉をくぐる。
今年は去年より一枚額縁が多い。展示しながら調整していく。急遽、一点、展示順を変更することにする。そうして一枚、一枚、微調整しながら展示が進む。
搬入に女友達二人、そして展示にマスターも加わってくださって何とか形が整う。気づいたらもう昼前。扉の脇にある小さな窓からは、日が燦々と降り注いでいる。
撮影したのは、確か三月だった。その日は特別寒い日で、日が昇る前にこの公園に着いた私たちは、寒くて寒くて凍えそうになっていたのだった。それでも彼女らは白く薄いワンピースに着替え、裸足になり、私のカメラの前で走り、横たわり、立ってくれた。思い出すと心がじんとする。被害の折、カメラを向けられていた子もいた。そのためにカメラを向けられることがとても怖いという子もいた。それでも彼女らは私のカメラの前に立ってくれる。そして自らを晒してくれる。そのことが、私の手を震わせる。でもそれは同時に、奮わせるということでもあった。そのことを改めて私は、ありありと思い出す。
今回書いてもらったテキストの中に、幸せになりましょうね、という言葉を書いてくれた人がいた。幸せに。その言葉を書くことができるようになるには、どれほどの時間を要しただろう。どれほどのことを経なければならなかっただろう。それを思うと涙が出そうになる。それでも彼女は、幸せになりましょうね、と声をかけてくる。その力に、私は脱帽する。
今回写真に写ってくれたのは三人、テキストを書いてくれたのはさらに二人加わって五人だ。その五人それぞれが、今それぞれの道を歩んでいる。血反吐を吐く思いを味わいながらも、それでも今を歩いている。どうかそんな彼女らのこれからが、少しでも明るく穏やかな時間でありますように。私は祈らずにはいられない。

ねぇママ、ママはどうしてこういう写真を撮るの? 頼まれて撮るの? 違うよ、ママが自分でやりたくて撮るの。どうしてやりたいの? どうして、うーん、改めて訊かれるとうまく答えられないんだけど、でも、それをしたいと思ったから、撮る。どうしてそれをしたいと思ったの? そうだねぇ、深く傷ついた人たちの、それでも前に進もうとする姿って美しいでしょう? うーん。わかんない。そうかぁ、ママはそういう姿、美しいと思うんだよね、で、そういう彼女らを撮らずして何を撮る、と思ったの。だから、毎年撮らせてもらうの。ふぅーん。
ねぇママ、写真って何? うっ、難しいことを聞いてくるね。写真って何、かぁ。うん、写真って何? 写真は。そうだなぁ、在るがままに在るがままのものを映し出す、そして刻印する、ってことかなぁ。浮かび上がらせる、と言ってもいいかもしれない。でも、写真に写らないこともあるよね。そうだね、写真に写らないものの方がどれほど多いか知れないね。そういうのはどうするの? 想像してもらうしかない、かなぁ。想像するの? 絵でも何でもそうだと思うけれど、見る人がそれぞれに想像するんだよ。絵や写真を前にしてね。だから、たとえばママが写真を一枚何処かに飾ったら、もう飾ったその時点から、写真はママだけのものじゃなくなる。見る人それぞれの人のものになる。そうなの? ママはそうだと思うよ。だって、見る人それぞれに多分想像することは違うから。ふーん。なんか難しいね。たとえばさ、あなたは最近カエルが好きでしょ、カエルの財布とかカエルのシールとか集めてるでしょ。うん。でもたとえばママはカエルじゃなくて和の模様のものが好きで集めるでしょ。うん。それだけでももう違ってるでしょ。うん、違う。そんなふうにさ、人によって目が行く場所が違うんだよ。同じ一枚の絵の中でも、木に目が行く人もいれば、木の横に咲く花に目が行く人もいる。たった一枚の絵を前にしても、もうすでに、見る人によって違うんだよ、捉え方が。ふぅーん。やっぱり難しい。そうだね、難しいね。ママにもまだまだ難しいよ。

少しずつ少しずつ夜が明けてゆく。それと共に雀の啼く声が何処からか響いてくる。ちゅんちゅん、ちゅんちゅん、彼らは声を大にして啼いている。私は仕事をしながら、その声に耳を傾ける。ココアがからからと、回し車を回す音が、雀の声に重なって響いてゆく。
それじゃぁね、じゃぁね、またあとでね。娘と手を振って別れる。彼女は学校へ。私は私の場所へ。頭の中で今日済ませなければならない用事を反芻しながら、私はペダルを漕ぐ足に力を込める。
さぁ、行こう。銀杏並木の葉が、黄緑色にきらきらと、輝いている。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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