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2010年01月08日(金)

からららららら、からら、からららら。軽い回し車の音で目が覚める。あれはココアだ。私は起き上がって籠に近づく。するとココアがくいっと首をこちらに向け、ひょこっとした目つきでこちらを見つめてくる。おはよう、ココア。それにしても、同じ籠、同じ回し車だというのに、三人三様、どうしてこんなにも回す音が違うのだろう。ミルクが勢いの良い豪勢な音だとしたら、ココアはそれを半分にしたような軽やかな音、そしてゴロはさらに小さな、遠慮がちな音。ココアはそのまま砂浴びにかかるらしい。私はそれを確かめてから立ち上がり、窓際に寄る。カーテンを開け、窓を開け。一気に滑り込んでくる冷気に一瞬身を竦めながら、私はベランダに出る。
空をじっと見つめていると、濃紺の闇の中でも雲の姿がはっきり分かってくる。地平に漂う雲たち。多分朝焼けの折には煌々と燃え出すだろう。私はそんなことを思いながらプランターの脇にしゃがみ込む。挿し木を集めた小さなプランターの、ひとつの枝から新芽が出始めた。しかしまだ頼りない。このまま伸びてくれるか、それとも枯れてしまうか。どちらだろう。他のものたちはまだ、萎れた葉をつけたまま、土に刺さっている。葉が萎れた以外の変化は、まだ見られない。その中に、母に頼まれた、マリリン・モンローの挿枝もある。それだけでもどうか、根をつけてくれるといいのだけれども。
多分これは、濃い桃色の花が咲く薔薇の樹、その様子が先週辺りからおかしい。もしかしたらこのまま立ち枯れてしまうのかもしれない。そんな気配だ。正直、あまり手をかけてこなかった。放っている樹のひとつでもあった。だから余計に私は申し訳なくなる。私が目をかけてこなかったことを知って枯れてしまおうとしているんじゃないか。そんな気さえしてくる。でももう多分、遅い。
その横でパスカリは、新芽を出している。何度も病葉を摘んできたが、それを何とか越えてくれたのかもしれない。でもまだ油断はできない。今度出る新芽が病葉だったら。それもまた摘まなければならなくなる。病いの連鎖が止まるのは、一体いつだろう。
お湯を沸かしながら茶葉を選ぶ。ペパーミントの葉を買い足すのを忘れた。私はレモングラスの葉だけをカップにいれお湯を注ぐ。いつもより一層淡い檸檬色に染まるお湯。それを一口、一口啜りながら、私は机に向かう。

連鎖。その言葉に恐れ慄いた時期があった。子供ができた頃だ。虐待連鎖。その言葉はもういやというほど聴いてきた。それがもう当然のように。
そして私は、自分がされてきたと同じことを、これから生まれてくるだろう子供に自分が為してしまうのではないか、その恐怖に晒された。このおなかの中で今、刻一刻育っている命に対して、私が為してしまうかもしれない行為。それに私は恐れ慄いた。どうしたら逃れられるのだろう。どうしたら。
いくら考えても分からなかった。恐怖だけが、生命とともに大きくなっていった。私は膨れてゆく自分の腹に恐怖した。自分とその生命の未来に恐怖した。
諦めてしまえれば楽だった。何度もそう思った。割り切ってしまえと思った。でも。そんなことができるわけもなかった。私の脳裏に、何度も何度も、自分が親からされてきた行為が蘇った。そして私は知らぬうちに何度も、ごめんなさい、ごめんなさいと言っていた。お父さんごめんなさい、お母さんごめんなさい。いい子にするから、だからもう私を解放して。私はいつの間にかそう叫んでいた。心の中で。
この世にその生命を産み落とす瞬間まで、それは続いた。私の神経はすっかり参っていた。すっかり参ってしまって、もう何も考えられないところまでいってしまっていた。
彼女がこの世に生まれ落ちた瞬間。私はそれが、私とは全く異なるものであることを知った。私ではないモノ。私とはかけ離れたモノ。私の命を継いでいるかもしれないが、でも私には、それは全くもう、別個のもので。
あぁ、違うんだ。私とは異なるモノなのだ。そう思ったとき、ほっとした。あぁ、虐待は連鎖する必要などないのだ。そう思った。虐待が連鎖される必要など何処にもなく。私はこの私とは全く別個の命を、ただ受け入れ、見守ってゆけばいいのだ、と。そのことを知った。
虐待連鎖。その言葉がもたらす威力はあまりに大きく。私はすっかりそれに呑み込まれてしまった。しかし。
私は父母ではなく。娘も私ではなく。そこにはまた新しい関係が待っている。その可能性がこんなにもたくさん、在る。
そのことに、私は救われたんだ。

確かに、連鎖するものでもあるのかもしれない。実際そういう例が多々あるだろう。でも同時に、断つ可能性がこんなにも在る。それが断たれる可能性を、新たな生命が持っていた。持っていてくれた。そのことに、私は救われた。
私は確かに父母に虐待されたけれども。私は父母の子供で、父母の命を受け継いでいるかもしれないけれども。それはそれなんだ。私とこの新たな命の間には、そこにはそこで、新しい関係が生まれるんだ。そのことを、私は見た。
かつての私ではない。新しい命は間違っても、かつての私ではない。そのことが、私の背中を押した。押してくれた。新しい命は新しい命であって、決して私ではない。そこにかつての私はいない。そう、全く別個の、新たなる生命。
今思っても、あの感覚は不思議だ。何故私は産まれて来た命に、かつての自分を微塵も感じなかったのだろう。もしも、もしもの話でしかないが、もしも私がそこに、かつての私を見てとってしまっていたならば。そのときはどうなっていたのだろう。それを思うと背筋が寒くなる。ぞっとする。
でも。
新しい命はもう、私の手を離れ、私とは全く別個のところで呼吸していた。ほんの一瞬前まで私と臍の緒でつながっていたのかもしれないが。それはもはや断たれた。私と命を繋ぐものはもう、何もなかった。
そのことが、私を泣かせた。だから私は彼女を生んだ夜、病室に一人になって、さめざめと泣いた。ただ泣いた。嬉しくて泣いた。泣きながら、寝入った。
もちろん、育ててゆく過程で、何度か、脳裏を「虐待」という文字が過ぎった。そのことは否めない。けれど。
それは多分もう、私が父母に虐待を受けて育ったから、などという理由からではなく。もし私が娘を虐待するのだとしたら。それは、もう、私個人の責任であるということを、私は思った。連鎖しているわけではない。連鎖されてゆくわけではないのだ。もはや。

今だって、もしかしたら私は、と思うことがないわけではない。その言葉はあまりに強烈で、だから私の脳裏にしっかり刻み込まれていて。だから私はその呪縛にとりつかれていて。時折過ぎる。脳裏を過ぎる。その言葉が。
そしてそのたび、背筋を伸ばすのだ。己を省み、襟を正すのだ。またここからだ、と。その繰り返しだ、多分。
それでも。命は一刻一刻大きくなり。私の隣で息づき。今日もまた新しい一日を、一瞬を、越えてゆく。

じゃあね、ママもう出掛けるよ。うん、分かった。あ、ちょっと待って。
そうして娘はココアを連れてくる。ほら、見て、変な顔! そう言った彼女の手の中で、ココアがぶちゃむくれの顔をしている。私は笑いながら、彼女の鼻先を撫でてやる。
玄関を出るとちょうど、朝日が昇ってくるところで。私は立ち尽くす。まさに今生まれ落ちた太陽。この世に、今日という日に生まれ落ちた太陽。四方に伸びる陽光は瞬く間に街を染め上げ。
黄金色に染まる街。私はバスに乗り。川を渡る。川面に反射する陽光も黄金色で。それはもうきらきら、きらきらと輝き。
落ち込みそうになっていた私の心を少し引っ張り上げてくれる。正直、泣き出したかった。朝日の中で泣き出してしまいそうだった。でも。
泣き出したからとて、何を得られるわけでもない。心は少しもしかしたら軽くなるかもしれないが、今私の中に在るものは、それだけで軽くなるわけでもなく。
行くしかない。またここからやっていくしかない。のだ。
私は歩き出す。朝日は何処までも澄んで、空気は何処までも澄んで。私を包んでくれる。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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