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2005年09月08日(木)

 水曜日。一日中ごうごうと風が啼く。街路樹は全身を風に嬲られ、ぐわんぐわんと撓んでいる。そしてその風景をぼんやりと眺める私は、窓枠に腰掛け、じっとしている。
 風が世界を駆け回るその音がひときわ強くなったと思った瞬間、雨が降り出す。アスファルトに弾かれては奏でる雨粒の音色が、いつの間にか私の足を濡らし、太ももを濡らす。気づけばすっかり雨に閉じ込められ、私はただ、己の膝を抱き寄せる。そうやって丸くなって、畳の上にころんと転がる。

 夜、友人の声が耳元で響く。受話器を通して伝わってくる彼女の体温を頼りに、私は自分と世界とを繋ぐ見えない糸を手繰り寄せる。
 「犯罪者だったり狂人だったり。世界にはありとあらゆる類の人間が存在するけれども、あらかじめ穢れている魂なんてひとつもないんですよ」。訪ねていった部屋の中でその人の口からこぼれた言葉。「あらかじめ穢れている魂なんてひとつもありはしない」。私はその意味を掴みかねながらも、その言葉だけはひどく印象的で、心に深く刻まれていた。最近になってその言葉の意味が、ほんの少し、ほんの少しだけれども分かったような気がする。
 もちろん、それでも人は罪を犯すし、その犯した罪を省みることさえしない人も在る。長く生きていれば生きている分、そういった光景と出会う数は増えるのだろう。そうして歳を重ねて重ねてその最果てで、自分は何を信じるのか、何を見出すのか。この世との縁を断つ瞬間、私は何を思うのか。それでもやはり赦せないと嘆く私がいるのか、それとも一切の悔恨を捨て去り世界を丸ごと受け入れる私がいるのか。
 どちらが私の最期に飾られるのか、今の私が知る由もないけれども、でも、できるなら、後者であるといい。後者であれ、と、願う。

 使うたび血で汚れる刃はすぐに錆びる。大学を卒業し就職をし、以来、刃を買い足したことなど一度しかなかった。今、私はその時買った最後の刃を用いている。付け替えたのは確か初夏の頃だった。今私の机の引き出しに投げ入れられた刃は、気づけばすっかり錆びて、普通だったら切れるだろう薄い紙さえ切れないときがあるほどになってしまった。ここで新しい刃を買い足すのか買い足さないのか。今買い足したら腕を切る速度に拍車がかかってしまうかもしれない。自分を信用していない私はそう思い、今日こそ買おうかどうしようかと迷いながら文房具売り場を通り過ぎ、階段を降りる。
 でも今日、当分は買い足さないことを決めた。何かと不便にはなるけれども、それは紙を切る上で必要なのであって腕を切るために必要な代物じゃぁない。ようやく私は自分にそう言い切れる。だから、娘の字練習のノートを買い足しに入った文房具売り場で、視界の端に刃の姿を捉えながらも、何とか手を伸ばさず売り場を後にすることができた。
 ねぇママ、今日さぁ、あのおばあちゃんとこに行きたいんだけど。
 おばあちゃんのとこって何処?
 風船とかいろいろ売ってるところ。
 あぁ、あそこか。遠回りになるよ。そうすると未海が見たいテレビが見れなくなるかもしれないよ。いいの?
 うーん、いい。だってテレビは来週でも見れるもん。
 ははは。じゃぁ行ってみようか、久しぶりに。
 それは畳一畳分あるかないかの家幅で、その玄関口に所狭しと駄菓子やら風船やらを置いている店。私は息を切らしながら自転車を漕ぎ、坂を上って下って、その店に辿り着く。
 ママ、どの風船にしようか。
 ママはどれでもいいけど。でもなぁ、膨らますのが簡単な方がいいなぁ。
 それってどの風船?
 …分かんない。
 だめじゃない! それじゃぁ選べないじゃん!
 じゃぁねぇ、とりあえず今日はこれでもいい?
 いいよ。
 じゃ、みう、ここに何円って書いてある?
 50円。
 じゃ、これが50円ね。自分で買ってらっしゃい。お金渡したら、最後ありがとうってちゃんと言うのよ。
 はーい!
 妙に高く機嫌のいい娘の声が辺りに響く。私は引き戸のそばに立って娘の様子を見守る。何とか無事に買い物を終えた娘が、ひっひっひと奇妙な笑い声を立てながら、上機嫌でこちらへやってくる。私は店の奥へ一声かけながら、自転車の鍵を回す。

 娘を寝かしつけ、私は昨夜の一コマを思い出す。電話の向こう、こんなちっぽけな私の為だけに泣きながら声を枯らす彼女が在た。たかが私の為だけに、必死になって、私に何ができるの、と訴える彼女の声があった。
 もうそれで充分じゃないか。それ以上の何を望む?
 私は、彼女の声が私の中で木霊し続けるのを、じっと見つめていた。あぁ、こんなところで立ち止まってるわけにはいかない。私はまた歩き出さなければ。きりきりと切なさが音を立てる私の内奥で、私は自分に言わずにはいられなかった。しっかりしろ、自分。
 そして思い出した。あぁそういえばここしばらく、私は世界を眺めることをすっかり忘れていたというそのこと。
 私は今、娘が奥で眠るその寝息を微かに聞きながら、窓を開け放つ。通りを走り過ぎる車の音、何処からか近づいてくるサイレンの音、そして私の傍らで揺れる朝顔の蔓が描く僅かな影姿。そして、もう沈んで見やることのできない月の残像。
 そしていつものように街灯に照らし出される街路樹の葉々。台風で翻弄されていた姿は一体何処に消えたのか、今私の目の中に浮かぶ姿は、じっと、ただじっとそこに佇む樹影。
 私は暗闇の中で自分の左腕を何気なく撫でる。指先に伝わってくる感触はこれでもかというほどでこぼこで、思わず苦笑を漏らしたくなる。
 これを終わりにするのは自分しかいない。そのことは最初から分かっていたはずだ。でも、私は弱くて、自分の衝動に流されるばかりだった。でも。
 私の衝動を止めようと、ブレスレットを贈ってくれた友がいた。ずたぼろになってもう全てを放棄してしまおうかと思いかけた私に、真っ向からぶつかって泣いてくれる友がいた。もうそれで充分過ぎるんじゃぁないのか。
 刃に一度手をかけてしまったら、正気に戻ることは難しい。なら、何とか最初から刃に手を伸ばさずにいる方法を、その術を、私は自分で得るしかない。
 手を伸ばせば届いてしまう場所にある刃を、私はひとつひとつ摘み上げ、引き出しの奥にぽいっと投げる。ちょっとすると誘惑にかられそうになるけれど、ともかく引き出しにしまいこむ。そして。
 思い出す。友の顔を。友の声を。
 その姿や声は、いつしか私の中でひとつの塊になってゆく。生きよう、とことんまで生きよう、生き延びて生き延びて、そして死ぬときは思い切りの笑顔で。

 耳を澄ますと、狭い部屋の中、娘の規則正しい深い寝息が私の鼓膜を揺らす。その振動に身を委ね、私はさらに耳を澄ます。
 ねぇ、生きよう。生き残ろう。
 彼女たちの声が、今、私の背中を、押す。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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