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2009年08月04日(火)

私の前髪はいつも短い。
おでこの狭い私は、何度か前髪を伸ばしかけて、顎のあたりまで頑張ってみたこともあったが、結局「邪魔ダ!」となって切ってしまう。
今日も前髪を切ってみた。しゃっきり真っ直ぐ切ってみた。
結構これだけで、背筋がしゃきんと伸びるもの。

このところちょっと憂鬱なことが重なっていた。
そういうときは、この、「前髪切り」は結構役に立つ。
自分の気持ちをしゃっきりさせ直すのに、力を貸してくれる。

昔、まだパニック発作が酷かった頃。
長い髪をばっさばっさと切ってしまったことがあった。
ざんばら髪になった後、発作がおさまって、鏡の前でぎょっとしたのを覚えている。

昔も昔、まだ事件に遭って間もないロサンジェルスに逃避していた頃のこと。
解離が酷く、毎夜のように裸足で部屋を飛び出していたそうだ。
そして、ある時は「海へ行かなくちゃ」と闇雲に駆け出し、
ある時は、「もう逝かなくちゃ」と刃を自分に向けて足掻いていたという。

今、そういうことは数える程しかない。
薬のお陰なのか何なのか分からないが、調子がよければ街中で多少の時間を独りで過ごしても大丈夫になってきた。
最近は、朝時間があれば、決まった喫茶店に行って、余力があれば本を読む。なければノートを前にぼんやり過ごす。一時間でも三十分でもそういう時間があれば、その日は少しの余裕を持って一日を過ごすことができる。

この数ヶ月、自分の持っている耳の役目について時折考える。
私の耳はどんな役目を負ってここについているのだろう、と。
この耳は運がいいことに、ちゃんと鼓膜が震え、誰かの声や自分の声を聞き取ることができる。
そんな貴重なものを持っている自分は、何ができるんだろう。
この耳は、何にこそ生かせるのだろう。
そんなことを、つらつらと考えている。

清宮先生と奥様との書簡をタイプしていて、先生が奥様に万年筆を贈ったくだりがある。
奥様はそれまで、もうぼろぼろになった万年筆で先生に手紙を書いていた。
貧乏な先生もまた、ぼろぼろな万年筆で奥様に手紙を書いていた。
ある時奥様が先生に、「いつもあなたと一緒にいられるもの」として万年筆を贈ろうとしたところを、先生が、そういうお金は病気を患っているお母様と奥様との生活にこそ使ってほしいといい、その代わり手作りの枕を自分に贈ってほしいと言う。
そして、結婚前、先生の方が、奥様に真新しい万年筆をプレゼントする。
新しい万年筆で書かれた最初の手紙には、奥様の感謝の気持ちが溢れんばかりに綴られていた。

奥様は、その後、手作りの枕を先生に贈ったのだろうか。
書簡はそこまで残っていない。
先生が、書斎の机の中、大切にとっておいた二人の書簡は、結婚直後で終わっている。

万年筆。私も、コンピューターなぞ全くもっていじろうとしなかった、万年筆で一生過ごすんだと言い張っていた時代があった。
万年筆のあの独特の書き心地が、たまらなく好きだった。
ブルーブラックのインクを好んで使い、いつだって肌身離さず持っていた。
今、私は、万年筆の代わりに常にボールペンを持っている。
どんな状況で書いても滲まないボールペンのインク。ちょっと味気ない気はするが、咄嗟に手に書こう紙に書こうというとき、迷わなくて済む。
ただ。
先生と奥様の手紙の束を広げると、このインクにしかあらわせない感情の起伏があったなぁと、懐かしく思う。

先生の手は木版を作り出した。奥様の手は先生を支え続けた。

私の手は?
私の耳は?
私の声は?

タイプを続けながら、そんなことを考え巡らしている。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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