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2010年01月23日(土)

目を覚ますと午前四時半。腰の様子をうかがいながら起き上がる。寝ている間に寝返りをあまり打たなくなったのはいつ頃からだったんだろう。寝返りを適度に打つのは必要なことなんだと、改めて知る。でないと体が一晩中その姿勢で固まっていることになる。体が元気なときはそれはどうってことのないことなのだけれども、どこか傷めると、こうして支障が出てくる。
起き上がり、お湯を沸かそうとしてふと気づく。ゴロが回し車を回している。でも音はほとんどしない。彼女はまだ体が軽いからだろうか、それともそういう性格なんだろうか。軽やかに軽やかに回る。そして私に気づき、前足をちょこっと上げてこちらを伺う。おはようゴロ。私は声を掛ける。彼女はひくひくと鼻を動かし、そしてまた回し車を回し始める。
ホワイトクリスマスはもうまさに終いの頃。どっしりとした花をぶらさげた付け根が重たそうだ。花びらもすっかり開いた。でもこの香りは最後まで続いている。涼やかな涼やかな、少し甘い香り。
窓を開けてベランダに出る。今朝の冷え込みは思ったほどではなく。そんな中、ベビーロマンティカが花をつけている。でもこちらはとても小さな、実に小さな花で。私の薬指ほどの花びらが、何枚も折り重なり、上を向いている。香りはほとんどない。明るい煉瓦色の花弁が、闇の中、すっと浮かぶ。
お湯を沸かし、紅茶を薄めに入れる。そこにコーディアルのエキスを垂らし。出来上がったコーディアルティは少し甘くしたレモンティに似ている。私はそれを口に含みながら、椅子に座り、作業を始める。

遊びに来た友人が、娘に尋ねる。ねぇ、私、もてないんだけどどうしたらいいの? 娘が、なんで私にそんなこと聞くの? と頓狂な声を上げる。うーん、そうだなぁ、まず、髪の毛を結んで、お化粧はさっとやって、颯爽と歩くといいよ。ほんと? 友人と娘とのやりとりに、私は思わず笑い出しそうになる。だからさぁ、まず髪の毛結んであげるよ! 娘がやにわにブラシを取りに行き、ゴムとピン止めも持って戻ってくる。結局、彼女は髪を結ばれ、そうして二人でゲームに興じる。私はその背中を、笑いながら眺めている。
いつの間にかゲームから風船へ移行したらしく、布団の上で風船をばしばし投げ合う二人。娘の容赦ない攻撃に、友人もひゃぁひゃぁ言いながら応じている。
夕飯はひっぱりうどん。私が葱をたっぷり入れすぎたらしく、娘が、涙が出るよぉと苦情を叫ぶ。私は知らん振りしてうどんをひっぱり上げる。ここ数日食欲がまったくない友人は、それでも納豆を平らげてくれる。
さんざん友人に遊んでもらったおかげか、娘はすとんと眠りに落ちる。それを待って、私たちはこっそり布団から抜け出し、二人で酒を酌み交わす。友人は焼酎、私は梅酒。ちびりちびり、やりながら、あれやこれや話す。

授業はインナーチャイルドセラピーワークの最後。私は一番最初に本人役を済ませてしまったおかげか、気持ちはずいぶん楽だ。できることは、相手の話に心を込めて耳を傾ける、それに尽きる。
こうして話を聴かせてもらっていると、本当に、人の表面に出るものはその人の経験してきたことのほんの一部に過ぎないのだなということを知らされる。自分が今見えているものは、その人の氷山の一角に過ぎないということを、だから忘れてはならないんだと思う。自分が見ているものがどれほど一部に過ぎないか、ほんのひとかけらに過ぎないかを、忘れてはならないんだと思う。
次週の授業は共依存症に入る。正直、楽しみにしている。早く学んでみたい。そう思っている。

家に辿りつくと、友人から手紙が届いている。何だろうと開けてみると、友人が、娘さんの受験を待つ間に記してくれた手紙が入っていた。
「寒くなって震災のTVを観る度にあなたは大丈夫だろうかと思い出す。でも日記を読んでいると、やっぱり人間はすごいなぁと思うよ。少しずつでも良い方へ進んでるんじゃないかなと思う。すべてのことにおいて。ご両親との関係も含めて。変わってきた事、今だから分かるこ事、学んで見えてきた事など…」。そして最後、こう結ばれていた。「いつかおばさんの庭の写真を撮って見せてください」。
友人と知り合ったのはもういつのことだったろう。十年以上も昔になる。その当時、自分の体験を綴ったサイトを営んでいた。今それを読み返すと、よくもまぁここまで赤裸々に綴れたものだ、と我ながら呆れる代物だ。それを彼女が見つけてくれた。そうして知り合い、子供も含めた付き合いが始まった。こんなこと言っていいのか分からないが、私にもしママ友というものがいるとしたら、それは彼女くらいかもしれない。
彼女に何度、私は助けられたろう。数知れない。住む場所は西と東、大きく離れているというのに、それでも彼女は私の支えだった。そして、今だから言える。彼女は私の憧れでもあった。どんな苦境に立たされても、必ず這い上がってくる。そんな彼女に、私は憧れていたんだ。
彼女の手紙を繰り返し読みながら、私は少し、泣いた。
ありがとう。覚えていてくれて。だから私は少しだけ、泣いた。私の目の中で、彼女のやわらかな文字が滲んでいた。

あと数日で、十五年になる。あとほんの数日で。正直、よく分からない。どう受け止めていいのかがよく分からない。
この十五年という時間は長かったのか、それとも短かったのか。それさえ今は定かではない。あっという間といえばあっという間だ。でもとてつもなく長いといえば、それもまた真実。
今思えば、よくその途中で子供を産んだものだと思う。そして苦笑する。十年前の今頃、私は毎日のようにやってくる微弱陣痛に、恐れ苦しみ、どうしたらいいんだろうと泣きそうになっていた。まだ早い、まだ早い、もうちょっと頑張ってくれと、お腹に向かって言い聞かせていた。ようやっと産んでみればみたで、生まれた子供に慄き、一人泣いたっけ。
子供を産んでから、何度波に襲われただろう。リストカットが止まらず、血だらけの腕をぶらぶらさせて夜を越えたことが何度あったろう。ぶっ倒れ、救急車に運ばれたことが何度あったろう。
それでも。生きてきたんだなぁと、思う。
生きるということが、そんなに大変なものだとは。生きることがこんなにも、しんどいものだとは。もし最初に知っていたら、人は生きていけないのかもしれない。

私が昔の写真を引っ張り出し、整理していると、娘が後ろから覗き込んでくる。ねぇこの人、誰? 覚えてないかなぁ、ママがぶっ倒れたとき、飛んできてくれて、あなたの相手をしてくれたんだよ。そうなの? うん、そうだよ。この人は? この人もねぇ、今はもういなくなっちゃったけど、その時やっぱり飛んできてくれて、ママとあなたを助けてくれたんだよ。ふぅぅん。
どうして写真なんか残っているんだろう。不思議でならない。このシャッターを切ったのは間違いなく私なんだろうが、どうしてこんなときにシャッターを切ることができたのか、全く覚えていない。
でも、そのおかげで、彼女たちはここに在る。もう会うことはないのだろうけれど、それでもあの時彼女たちはここに在てくれた。私は覚えている。

あと数日。私はどう過ごすんだろう。過ぎてみればきっとあっという間なんだろうが。だからこそ、一刻一刻、噛み締めていたい。十五年という月日はやはり重く。
でも、それに押し潰されない程度には、私も頑丈になってきているのかもしれない。そんなことを思い、私は少し笑う。

南東から伸びる陽光は私たちを包み込み。微かにそよぐ風は冷たく肌を刺すけれど、それでもこの陽射しは恵みだ。ほんのりあたたかいその温度に、私は目を閉じる。
どれほどの人にこの十五年支えられ、そうして私はその日を迎えることになるんだろう。ありがとう、ありがとう、ありがとう。もういなくなった人たちへも、今残ってくれている友たちへも、みなへ、ありがとう。
だから私は生きることをやめない。これでもかというほど血に塗れ、土に塗れ、どろだらけになって、それでも、生きることを、やめることは、ない。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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