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暗室にこもって息を詰めて、

 写真を撮ることも好きだが、私はもしかしたらそれよりも、暗室にこもって現像する、その作業が一番、好きなのかもしれない。
 真っ暗な中、モノクロ・ネガをセットし、ピントを合わせ、そうして秒単位の集中で現像・停止・定着、最後に水洗へと作業は進む。小さい頃からの妙な癖で、私は集中していると息を止めてしまうところがある。それが嵩じると息を詰めたまま「んーーーーっ」などと唸り声を知らないうちに発していることもあるほどだ。でも、集中できる瞬間というのは本当に気持ちがいい。全ての後片付けを終えた時、あぁ気持ちいい!と素直に感じられる。
 私がカメラを持つと同時に現像も始めたのは、まさにパニックが酷くなった時期と重なる。その頃、私はしばしば、パニックになってリストカットをし血がだらだら流れているその腕でもって、気づくと暗室の中に篭っていたりした。何故だろう。今思えば、灯りをつけた独りきりの部屋で、パニくってリストカットして声にならない悲鳴を上げるしかなくなってしまう自分の中の何かを、暗室に篭り、片っ端から手持ちのネガを現像してゆくという作業に「転化」していたんじゃないだろうか。そんな気がする。
 このままいったら自分は生と死の境界線を超えてしまう、でも今超えたらだめだ、今はまだ超えてはいけない、と、自分を消去してしまいたい欲求と同時にそれと同等の、それをさらに打ち消そうとする思いを私は抱いていたところがある。でなきゃ、さっさと死へとダイヴしていただろう。ここまで生き延びてきたのはやっぱり何処かで、生きなければ、という思いを自分で持っていたからだと思う。まぁこれも、今だから思えることなんだけれども。そしてこの、超えたらだめだ、という無意識の力が、私を暗室に篭らせたんじゃないか、と、そう思うのだ。
 私は夜の部屋の人工的な明るすぎる灯りが苦手だった。小さい頃からそうだった。何故か知らない。でも苦手だった。そして、暗闇が好きだった。安心した。闇が自分を柔らかく抱いてくれる気がした。明るい中では否応なく見せつけられているあまりに沢山のモノの輪郭が、境界線が、一転、暗闇の中では闇と同化し、同時に自分自身の輪郭も闇に融けてゆく。明るすぎる光の中では異端児か異邦人かに思えるばかりの自分も、この闇の中だと、いてもいい存在なんじゃないかと、そんなふうに思えた。だから安心できた。
 リストカットをする勢いでペーパーを現像液につっこみ次は停止液、定着液、水洗…そんなふうにひたすら繰り返す作業の中、少しずつパニックが収まっていく。すると止めっぱなしになっていた私の息もいつしかふぅっと吐き出され、私は落ち着いてきた自分に気づく。そしてそこはいつも、暗闇だった。
 パニックになってリストカットして時には薬もばかのみしてふらふらになっているにも関わらず、何故か分からぬうちに暗室に篭って写真を焼いて。思うさま現像作業をし終えた頃には、私はすっかり落ち着いて、なんとなーくいい気分にさえなっていて。その頃にはたいがい夜は終わりに近づいて地平線は白み始めており、つまりそれは蛍光灯などの人工的な灯りで部屋を照らさなくてもいい時間でもあり。私は灯りを消す。そして、朝の冷気の中、深呼吸、するのだった。

 今日私は、娘がいるにも関わらず暗室に篭った。別にパニックになったから、ではなくて、先日撮ったフィルムを現像したいな、と思ったからだ。そのネガには先日会った友人が写っていた。私は、彼女をどうしても焼きたかった。いや、彼女がそこにいた、そこにいることを証明するネガを、印画紙に焼き付けたかった。乳飲み子がいるのにどうやってやるんだ???と思いもしたが、自分の腕を埋めるようなリストカットの痕を見つめながら、今焼かなくちゃいけないような気がしてきて、私はその衝動をどうにも抑えられなくなってしまった。で結局、とりあえずやってみよう、と作業を開始したわけだ。
 もちろんそんなこと、私の気持ちの動きであって、赤子である娘には関係ない。娘には娘の気持ちの動きがあって、勝手に動いていく。決して待ってなんかくれない。容赦無くぎゃぁぎゃぁ泣くし、ミルクも飲むし、おむつも濡らす。そのたび作業は中断され、私は暗室から娘のところへ飛んでいく。出たり入ったりすれば暗室の闇は壊れ、つまりはせっかく印画紙に焼き込んだ筈の像をいとも簡単に壊してゆく。納得できるような彼女の像を印画紙に焼き出すなんてとてもじゃないができそうにない。でも。
 気づいたら一生懸命に、この両天秤の状態をなんとかしようとする自分がいた。

 結局、ボツの印画紙が山となって、たった三枚しか、なんとかなるかなぁというような写真は焼けなかった。けれど。気づいたことがある。
 人にもよるんだろうが、私は、自分がしたいと思うことはしていた方が、いくら大変な最中であっても自分の心にちょっぴりのゆとりができるということ。たとえばこうやって一瞬としてじっとしていてはくれない娘の世話と現像作業と両方するのは作業的にはきついのに、気持ち的にはゆとりができる。「隙間隙間に私のしたいことさせてもらってるんだから、いっぱい抱っこしていっぱい頬ずりしていっぱいお喋りしようね」と、そんな具合の心持ちに自然になっているのだ。そんなこんなで、暗室に篭って息を詰め「んんんーーーっ」と唸りつつピントを合わせていながらも、耳はドアの向こうの娘の立てる寝息や泣き声に集中する。この両天秤が、途中からはおもしろくもなってきてしまった。
 掛け持ちで身体がしんどいのよねぇ、というくらいが、結構私には合っているのかもしれない。確かに、自分のしたいことが自分の思うような完璧さでは絶対にできなくはなるのだが、完璧って一体何なのさっと開き直ってしまうという手もある。気になることがあるのに、今私はこれだけをしっかりやらなければいけない立場なのよとおりこうさんになってしまうと、私はむしろ途中で苛々したりする。二兎追うものは一兎をも得ずと言うが、まぁこの際そんなことは棚上げだ。仕事してんじゃないんだから。全くやらないより気になるならやってみる方がいいじゃない。それでいつもよりいっぱい娘に大好きよと頬ずりできる自分になれるなら、しんどいのなんてどうってことないじゃない。私は、現像せずにはいられない気持ちに私をさせた彼女の存在と、否応無くこの腕を常に必要とする娘の存在とのおかげで、性暴力被害を受ける前の、本当はいっぱいやりたいことを持っていたはずの自分をちょっとだけ思い出した。完璧主義でもある自分はちょっぴり切り捨ててみるのも、結構いいのかもしれない。そう思わせてくれたふたりの存在に、そして、私にかつて手取り足取り現像方法を教えてくれた旧友に、感謝。

                                                    (2000/05/11初記、2021/04/10加筆修正)

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