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2009年08月08日(土)

娘は最近、太ももの太さに悩んでいるそうだ。
母から電話がある。
そのことは、私もたびたび言われていた。どうして私の太ももはこんなに太いの、と。
だからそのたび、彼女に言った。
それは、ママに似たからだよ、ママもずっと太もも太かった、と。
すると彼女は言うのだ、ママは今太もも細いじゃん、太くないじゃん、と。
私は心の中で言う、太かったんだよ、今だって十分太いけど、と。

私もかつて悩んだ。さんざん悩んだ。思春期の頃。
どうして私はこんなに太いのだろう、どうして母はこんなにもスタイルがいいのに、私はこんなにも歪なんだろう、と。これでもかというほど悩んだ。悩んで涙したこともあった。そのくらい、真剣に悩んでいた。
そんなとき、母が、言ったのだ。
あんたは誰に似たんだろうね、まったく。私とは似ても似つかない、と。
その言葉が引き金になって、あまりにショックで、私は拒食症に陥った。一切食べないことで、どうにか自分の身体を矯正しようとした。実際それは叶った。とてつもなく細くなった。そして気づいたら、何も食べれなくなっていた。
そのあとやってきたのが、過食嘔吐の波だ。
真夜中、誰もいなくなった食堂で、私は大きなテーブルが埋まるほど食べ物を並べ、それを次から次へと口に押し込んだ。味なんてあったのかどうか、定かではない。でも、とにかく押し込んだ。そして。
トイレで吐いた。勢いよく。全てを吐く。吐いて吐いて、吐いて吐いて。
そうしないと気がすまなかった。
一日一回、が、やがて四六時中そうしたくなり。

気づけば、生理は止まり、歯はぼろぼろになり、体中、めちゃくちゃになっていた。
助けて、といいたくなったときにはもう遅かった。
助けてと言えない自分がいた。何に助けを求めればこの事態を収拾できるのか、もはや分からなかった。針金のように細くなった私の姿を見るに見かねた友人が、私を病院に連れて行った。そこで、視床下部等の異常を告げられる。不妊治療まで受けた。
でもその治療にはお金がかかった。私は夜のバイトを始めた。
生活が、どんどん崩れていった。
結局。
治療も途中で投げ出して、私は、全てを諦めた。

私はどうやっても母の気に入る子にはなれないのだ、と、そのことを痛感した。
この歪な、醜い身体は、もうどうしようもないのだ、と。
もう涙も出なかった。

いつも白い便器に嘔吐するとき、そこに母の顔が浮かんだ。
私は母に向かって嘔吐している、そのことが、とてつもない罪悪感となって私を襲っていた。
もう、それにも疲れ果てた。

家を出て、飛び出すように家を出て、過食嘔吐などは収まっていった。
PTSDを患って、再びその発作はやってくることになったのだが、それでも、
家を出ることで、私の発作は一時期おさまった。
それほど、私にとって大きかった。
家の存在が。父母という親の存在が。その親に否定されるばかりの娘という自分が。
とてつもなく、重かった。

話がずれてしまった。
今、娘は太ももが太いと悩んでいるらしい。私から見たら彼女の足は真っ直ぐで、うらやましいくらいなのだが。それでも彼女は悩んでいるらしい。

今夜、こっそり耳打ちしてやろう。
ママも太かったんだよ、あなたの二倍くらい太ももが太かったの、
でも、大人になれば、少し細くなるよ、今あなたが細いと言ってるママの足くらいには細くなるよ、だってあなたはママの娘なんだから。ママの血をひいてるんだから。ママの娘なんだから。

って。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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