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散文詩集

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#散文詩

識 閾

時計の音ばかりがひとり 響き渡る 地下道は一面 天井の 人口灯で照らし出され 足音を落としていったはずの 君の姿は見当たらず ただ晧晧と 無機質の壁 壁 壁 続く地下道   知らなくてもいいことがあったよ   幾つも幾つも   手を伸ばしてもいないのに   落ちてきた果実が   私の足元でやがて朽ち始め   還る土もないこの場所で   腐臭を放つ 窓も出口も消えた地下道ではいくら 時計が時を刻もうと 掴んだ砂のよう瞬く間に この掌から零れ落ちる この手から 零れ落ちる

地下鉄の花束

夜明けの地下鉄 花束を買う 自動販売機 幽かな音をさせて落ちてきた花束は 葉脈の先端までも冷え切って 冷気は握る私の掌から 背中へと抜けてゆく 覚めきらぬ晩の酔いを残し 走り出す車両に 朝日は射さず 何処までも何処までもトンネルの中 走り続ける あなた わたし 何処までも何処までも トンネルの 中 何処までも あなた わたし 花束 あなた わたし 花束 何処までも何処までも 熱を孕んで ああ 花束がとろけてしまう前に 地上に出よう 次の駅は 次の駅は 花束がと

69行の憂鬱

どうして抱いたの なんて、そんな問いは 無意味だ。だから君、もう僕にこれ以上 繰り返すのはやめてくれ。僕がここにい た君がそこにいた、僕と君その時それぞ れにここにいた、それより他に何がある というのか。夜は僕と君との境界線を曖 昧にする。夜という闇が境界線を曖昧に する。曖昧になった僕と君の境界線を、 僕が君の方へ、君が僕の方へ、それぞれ に一歩二歩踏み込んでみただけの話だ。 それを君はまるで僕が一方的に踏み込ん だかのような言い方をする。君がそうやっ て僕に自分の分までな

僕らの破片

あの朝 割れた鏡の破片を 君はもう捨てたかい? 僕の手が 君の手が 握っていた鏡は あの時の僕を あの時の君を あの頃の僕を あの頃の君を 映し込んではそのたび 時に光を 時に翳りを放った 僕らの鏡は 君の鏡の中に君はいて 僕の鏡の中に僕はいて 同時に 君の鏡の中に僕が 僕の鏡の中に君が いた そうして幾重にも僕らを焼き付けて 時に光を 時に翳りを放ちながら 鏡は僕らの手の中にあった 時にやさしげに 時に冷ややかに 時に饒舌に 時に沈黙でもって その時々の僕らを映し

距離感

わたしとあなたの 距離は適当に 聴こえたら返事して 聴こえたとだけ それ以上でもそれ以下でもなく どう好きか どう嫌いか なんて そんな説明はいらない あなたの好きと わたしの好きの輪郭は 決して完璧に 重なり合うことはないのだし わたしの嫌いとあなたの嫌いの輪郭も それもまた同じ 一枚の絵の前で ふたり きれいだね きれいよね そう言いながら あなたは絵の中の樹林を わたしは絵の中の大地を それぞれに目を細め 眺めてる きれいだね きれいよね そう云いながら私たち そ

「物語を」

物語を聴かせてあげよう どこにでもある、でも忘れられている物語を しぃっ、黙って、黙って聴いているんだよ でもその前に、そう、 目を閉じて 耳を澄まして そうしてじっと、じっとしていてごらん まず何が聴こえる? 閉じた目に何が浮かんだ? ろうそくをつけようか、一本 白い白いろうそくを おまえは目を閉じたままでいい 閉じたまま ろうそくの炎を思い浮かべてごらん 聴こえてきただろう? 炎の燃える音が その耳をそっと今度は その両腕で抱え込んだ足の内側に乗せてごらん 聴こえてきただ

「宛名の無い」

昨夜まで在った コンクリで堰き止められた川縁の 片側の泥地は 翌夕、訪れた今、その跡形もなく 消え去っていた 水位が上がっている 雨が降ったわけでもない 乾いた風の吹く 冬の直中で そう、昨夜 在ったはずの泥地に裸足で降り立ち 体重で沈み込む足跡を幾つも残しながら 行ける所まで行った、そして 投げ捨てた 宛名のないコトバの束は 今頃何処へ沈んだのだろう このまま水位が上昇し続け ヒトの生活を守るために造られた コンクリの堰を容易に越えて 溢れ出したなら 冬の夕暮は足早に

「真夜中のサイレン」

ふきこぼれる寸前で火を止める 真夜中のミルクは 妙に甘くなる 口中に拡がるその甘さにじっと 聞き耳を立てていると、やがて ソプラノ・リコーダーの音が 遠くからやって来る 笛吹の名前を尋ねるわけでもなく、いや、 果たしてそいつが名を 持つものなのかどうかも知らないが、知りはしないが、 わたしは 近づいてくるその音に、耳を澄ます 徐々に近づいてくるその音はいつか 二重、三重に厚みを帯びて それが四重奏に変わるその時 旋律の直中を サイレン音が横切る 月も星もない、ただ掌でくるめ

「黴」

冷え切ったコーヒーはどこか 血の味がする 何処にでも売っている剃刀の刃で昨夜 ぱっくりと切り裂いた左手首の割れ目から 溢れ出、そのままのカタチで 凍りついた 赤黒い血 かさぶたにもなれず、代わりに 妙な熱をもって 隠そうとまとった袖に擦れて余計に ひりつく傷口を 黴た舌で ぺろり と撫でた その味がする わざわざ出掛けた喫茶店で もう湯気も立たず、クリーム色のカップも冷めて 体温を吸い取ってゆくだけの液体は それでもカップの端に唇を寄せて ごくり と飲めば、そのまま胃の中へと

「なにもかも話してあげる」

なにもかも話してあげる  と、 憂いで潰れた眼差しの 中年をとうに過ぎた女が云う わたしがまだ物心つかぬうちから受けてきた傷の全てを 話してあげる、なにもかも  と、 疲労にまみれた私に云う その彼女の話を聞き得る耳が、私にまだ 残っているのかどうかを尋ねもせずに、その女が 云う 彼女の口から零れてくる言葉の合間合間に 時折掠れ声が混じり、また その哀れな人生にみずから涙を零しながら  私は、 耳を塞ぎたい衝動を抑え込みながら、 何とか耳を傾けようと試みる、彼女の眼をみつめな

「喧 騒」

私を突き刺してくるのは、街の喧騒で、それは どう足掻いても私ごときに止め得るものではなく 私は磔になったまま、突き刺され続けるしかない 誰のせいでもない 何のせいでもない ただ、 街が 怒っている 街が 憤っている これほどまでに踏み付けにされ続けている我が身に それがそのまま、街をふらつき歩く私を呑み込んでゆく それだけの話で 憤っているのはだから、ヒトなどではなく 苛ついているのはだから、ヒトなんかではなく 踏み付けられ続けるしかないこの ヒトに造られてしまった街の方なの

「数え唄」

昨日の晩は もう今日の明け 時計の針が ぐるぐる廻る おかまいなしに ぐるぐる廻る だから私はいつのことやら 覚えておける 隙がない 今日は何の日 明日は何の日 今日はいつから 明日はどこから 昨日も今日も明日も明後日も みぃんな続いて 一続き 帯でも織りまひょか その糸で いったいどれだけ織れるやら ひぃふぅみぃ…… 数えていてもきりがない ひぃふぅみぃ…… やっぱり やっぱり きりがない ―――散文詩集「傾いた月~崩れゆく境界線」より

「紅い川、紅い雨」

日没とともに響いた産声の 向こう岸では今 三途の川を渡り始めた影が ちらちら 揺れる 法で裁けぬ罪が 一体幾つ あるのだろう 法で裁けぬ罪ばかり 今日も巷に降り積もる 声を上げれば逆に 傷口を押し広げられ 血は瞬く間に溢れ出す 河となり、大河となり やがて 轟々と 流れ出す 紅い河よ 紅い河よ 何も望まず 何も願わず ただ浪々と 流れてゆけ 昨日そこにあった樹がまたひとつ 雑踏に根こそぎ引き剥がされ 昨日あったはずの樹がまたひとつ 降り続く紅い雨に倒れ 往く この眼

「陽炎の街」

向日葵がぎらぎらと 朝日を乱反射させる 夜明け 東からの光は のびてのびてのびて、 街を真っ二つに切り裂く 見えない亀裂は 人を呑み込み、 影を呑み込み、 気づけば空っぽの 街 残骸と呼ばれる 街 一瞬の空白 ねえ、 ここでの主人公は誰れ? あなた? 君? 私? それとも? 裂傷した街を闊歩する 一番に陽光を浴びた向日葵が 裂傷した街を闊歩する 二番目に陽光を浴びた朝顔が 裂傷した街を闊歩する 三番目に陽光を浴びた油蝉が でも もはや誰も主人公にはなれない