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散文詩集

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2023年10月の記事一覧

「帰り道」

乾いた砂利道は 橙に染まる頃 蜘蛛の子を散らすように みなが駆けてゆく 家路に変わる ひらくすすきの穂の匂いに膝を抱いて 手も振らず見送った じきに消えてゆく 豆粒の背中  覚えたての子守唄は  いくら唄ってみても 途切れ途切れ  冷えてく指先をあたためるほど  やさしくはない 帰れない家路は 輪郭もにじんでゆく 誰も探しには来ない すすきの根元 ひとりぼっち 刃のような葉を 握り締めては 傷つける手のひらは やがて赤く染まり もう誰もいない  覚えたての子守唄は

「原風景」

言葉という炎で焼き尽くされた野には 黒こげの屍体が散乱し、 言葉という炎で焼き尽くされた野は 雨あがった今もまだ細く長く 灰燻を吐き続け、 ただひとつ 焼け残ったのは 記憶という椅子 脚が一本折れて立つ 記憶という椅子 この原野の只中に 椅子は 在り続ける 昨日も今日も明日も この原野の只中に 椅子は 在り続ける この椅子に座る者がもはや ここにはいなくとも ―――詩集「胎動」より

「冷凍保存」

ウスバカゲロウが一匹 空っぽの冷凍庫に ゆらゆらと電燈の下 漂わせていた翅は もし今、指で触れたなら こんな鼓膜では確かめられない程の 微音をたてて崩れ去るだけだろう だから そのまま冷凍保存 ウスバカゲロウ 一匹 胎内に宿した 呼吸も記憶も併せて 冷凍庫の中に 切り刻んだ腕も 流れ堕ちた血潮も 今は 冷凍保存して 時流から切り離されても この子宮は年輪を刻む 誰が何が いくら忘れ去ろうとも  マダ何モ 終ワッチャイナイ  マダ何モ 始マッチャイナイ やがて

「時効」

時効とは  ある事実状態が一定期間継続した場合に権利の  取得・喪失という法律効果を認める制度。一般  にあることの効力が一定期間経過したために無  効となること。 世間に明日 「時効」が訪れる 法に支配された世間が それは「時効だ」と正々堂々と宣うことのできる 「時」が 空っぽの法廷では今 明日への準備のため 時計が刻一刻 時を計っている 被告人はおろか 裁判官のたった一人の姿もそこに 無いまま、 刻一刻 時計だけが時を 計っている 次の朝、 あの日から世間に 置

「月夜」

雨粒を滴らせる窓よりも 冷えた体温では 指文字は残らない 透明なガラス窓の上 なぞってもなぞっても 描いているはずの 残痕はその欠片さえ浮かべず 諦めの意味をその時 誰が知っていただろう 月の仔さえも凍え死んだ 井戸の底で ―――詩集「胎動」より

「白昼」

時間が過ぎるのではない 人が過ぎ去ってゆくのだ 幾重にも折り重なる歩道橋の上はいつでも 足 足 足によって踏み拉かれる 掠れた輪郭の悲鳴で 溢れている 日常は そこに在った その言葉が内包する怖ろしいほどの矛盾に 誰もが眼をつぶったまま ―――詩集「胎動」より

「断」

温度を忘れた布団の下 小刻みに震え続ける身体をどうにか支え、 二度と明ける筈のない夜が容赦なく 消え逝き、代わりに朝が 訪れる 壁に掛かった時計盤の上では 短針と長針が昨日と変わらず 廻り続けており、 僅かに部屋に差し込んだ光の 帯で浮かび上がった 私の輪郭は、 昨日とは決して重なることなく 陸に釣り上げられた魚のように喘いで おり、 あの日 壁の時計は正確に 時を刻み続け、 私の背中に貼りついた時計は 壊れた。 ―――詩集「胎動」より

「満潮」

あなたはわたしの鎖骨を折って これが愛の証といふ わたしはあなたの肋骨を折って これが愛の証といふ 幾つもの幾つもの愛の証 幾つあったら満ち足りるのだろう あなたの両手の十本の指を わたしの療法の乳房の乳首を ぽきぽき折って かりかり齧って ぼろくずのようになって あなたはわたしの首を絞め これが愛の証といふ わたしはあなたの喉を裂いて これが愛の証といふ そうして満潮の浜辺 波に攫われて ふたり 海の藻屑に なる ―――詩集「三弦の月」より