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【第九のベートーヴェンとNo.9のジョン・レノン】5つの共通点

今年はジョン・レノンの没後40年生誕80年のメモリアルであると同時に、ベートーヴェンも生誕250年。

ベートーヴェンとジョン・レノン、この二人ってなんか似てるなと思った部分とその理由、原因を書いてみます。メモリアルイヤーがカブったというだけでない何がある気がするので。

ジョン・レノンはベートーヴェンが好きらしい。しかも最愛の女性を介していて、そういうところも女性大好きのベートーヴェンっぽい。

映画『ビートルズがやってくるヤァヤァヤァ』でのジョンのお風呂シーン、戦艦で遊びつつ、歌う鼻歌がベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番通称『皇帝』のフレーズだ。それに気づいたミュージックライフの読者からの質問で、ベートーヴェンが好きなのですか?と訊かれ、「好きだよ、シンシアがよく部屋で流してるから聴いてるんだ」と答えている。

『アビーロード』の中の名曲『ビコーズ』も、ベートーヴェンのビアノソナタ第14番『幻想曲風ソナタ』通称『月光』を聴いてインスピレーションを得たといわれている。この月光ソナタを弾いていたのはオノ・ヨーコ。ジョンの曲には初期はシンシアさん、後期はヨーコさん、たまにアストリッドさんや記者の女の子と、女性たちのことについて歌う歌が多いけれど、ベートーヴェンも不滅の恋人やエリーゼ(テレーズ)、愛する女性たちへ捧げる曲を多く書いている。ここがベートーヴェンとジョンの共通点その1、彼らにとって女性たちへの愛は音楽には欠かせないのだ。

そういえばポールは『ブラックバード』はバッハっぽく作ろうとフランス組曲第5番『ブーレ』を意識したと話している。ポールのメロディアスで多作なところはモーツアルトを思わせるけれど、音楽に対して、客観的に効果を計算して構成して組み立てているところはどこかバッハっぽくもある。対して、ジョンやベートーヴェンは直情的激情的なイメージだ。

クラシックに関しては私自身は好みはバッハやモーツァルト寄りで、全体的にモーツァルト以前のバロックやルネサンス期、中世マドリガルの古楽を聴くことが多く、あまりベートーヴェンを聴くことはなかった。地元のオーケストラである九響も、普段の定期演奏会ではマーラーとかブルックナーとかやって、ベートーヴェンとかは、企業とのタイアップのコンサートでクラシック初心者向けの時にわかりやすく盛り上がるために演奏されることが多い。

そう、ベートーヴェンの曲はわかりやすい。彼の曲の主題たちは、誰もが知ってる、ポップスでいうとサビに近いのだろうけれど、交響曲第5番『運命』や第九の『歓喜の歌』、ビアノの発表会定番の小品『エリーゼのために』や、ビアノソナタ第8番『大ソナタ悲愴』のロマンティックなアダージョ、のだめのベト7やジョンが口づさんだピアコンの『皇帝』など、クラシックといえど現代に充分通じるほどキャッチーで、悲愴のアダージョなどコンクールで楽譜を与えられたとき、私はクラシックでなくて、現代の曲だと思っていたので200年以上前のベートーヴェンさん作ときいて慌ててしまった。

ベートーヴェンのそのキャッチーなフレーズたちは、クラシックを代表するようなアーティストでありながら、クラシックのジャンルを飛び越えて時を越えて私たちの心に響く。ここも、共通点その2。わかりやすく、ジャンルを超えて愛されるのだ。


ビートルズもロックを代表するようで、ロックを越えて、当時のロックをほとんど知らない世代の現代の若い子たちの間にも鮮やかに響いている。それは先に述べたジョンやベートーヴェンの直情さによるのかもしれない。ヨーコさんは彼の曲を心臓の鼓動のようにシンプルだから皆に響くと言っている。もし私たちが、外国にいて、口ずさんだとして、ベートーヴェンもビートルズもどちらも、おお!と国境と世代を越えてわかってもらえるだろう。


今は娘に代替わりしたのだけれど、指揮を振らせてもらっていた子どもたちの合唱団でベートーヴェンの第九の4楽章をやったことがある。九州で一番大きなホールのステージのアクロスシンフォニーホールに立てることになり、オーケストラ部分を子どもたちにできるアコーディオンやヴァイオリン、リコーダーやトライアングルなどの楽器に編曲して、ラストは私も一緒になって子どもたちと合唱した。

あの有名な主題が、最初は静かに各々の楽器によってそれぞれソロから演奏される。付点交じりだったり、似通ってるようで少し違ったり、メロディたちもさまよいながら、それでも、あの主題が匂わせられている。次々と入ってくる色んな楽器たちが絡みあい、歌もはいってきて、力強さが増し、全パートが揃った瞬間、一瞬、フッと音楽がやんだ?と思ったら、あの圧倒的な大合唱。もう有無を言わさず爆発的に感動させられる。例えるならなんていうか、今までもしかしたらお互い好意をもってるかも?と偶然に会う帰り道や学食やゼミの飲み会のあとで感じていた男子から、いきなり壁ドンキスされるレベル(でもちゃんと好意を確認しあわないと訴えられるからマネしちゃダメ絶対)。それまでの伏線が全部回収されて、それまで各パートで奏でられていたものが、一気に合流して爆発して、ひとつになる。

歓喜、喜びは、本来は「自由」の意味で歌われた可能性があるらしい。当時欧州の王政がくずれ、革命が起き、ナポレオンが台頭しているときだった。貴族たちをパトロンに持ちながら、ベートーヴェンは貴族たちを打ち破り自由をもたらすナポレオンに心酔して交響曲「英雄」も作っている。そのあとその楽譜を激昂して破り捨てたりもしてるけれど。ベートーヴェンはわりと政治に感情移入する。これもジョンとの共通点3つめ。音楽家でありながら、音楽家だからこそ政治に無関心でいられないのだ。

そして人々の民衆の自由主義、自由を叫ぶことは王政、パトロンたちであった貴族たちをも否定することであり、やはり過激だったので、「自由」を「歓喜、喜び」に変えたのだという。

自由を得られたときには歓喜するだろうし。ドイツ語の自由Freiheitフライハイトと歓喜Freudeフロイデ、似てなくもない。たしかに、王政からの人々の自由のために立ち上がろう、という、という意味をくみ取れば、さあ、同胞よ、手を繋ごうという意味は重みを増してくる。明らかに政治的な意味合いが入る過激思想だ。そこを、歓喜、喜びにして、現代の私達が子どもですら歌えるようにまろやかにしている。言わば砂糖でコーティングしているのだ。

この過激さを避ける言い換えはジョンもしている。例えばノルウェイの森のIsn’t it good Norwegian wood?はkowing she would彼女が身体を許してくれそうな雰囲気なのがわかること、をあまりにアレなので言い換えた説が村上春樹の雑文集に書かれている。

そしてイマジンについてのインタビューでも、この歌詞はあまりに過激だから、子どもに語るようにわかりやすく、絵本のようにしているんだ、砂糖で包んでる、と話している。ここの共通点4つ目。普段は情熱的に曲作りするくせに、過激思想は砂糖コーティングして皆んなを騙して服用させる。

そう、そして5つ目の共通点、第九の『歓喜(自由)の歌』と、『イマジン』は歌われ方が似てるのだ。第九の『歓喜(自由)の歌』は分断に脅かされる欧米、特にヨーロッパEU統合の象徴として歌われることも多い。日本では学徒出陣のときに密かに反戦の意味で演奏され、終戦後はレクイエムの意味で年末に演奏されるという説もある。これ、イマジンと言ってることも、歌われる目的も一緒だ。ベトナム戦争の反戦活動から911のグラウンド・ゼロ、パリでの同時多発テロ、そして今回のコロナ禍。イマジンはそれぞれ反戦や鎮魂の意味で歌われている。どちらも実は過激でアナーキーで、それでいて人間への愛と信頼にあふれている。そして、世界の危機になるとアマビエさまのように蘇る。

ここまでジョン(ビートルズ含む)とベートーヴェンの共通点を見てきたけれど、では、なぜ二人はこんなに似ているのか?という原因について、次回で考えていこうと思います。長くてごめんないー。




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