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愛される暴力

セックス&バイオレンスな平安時代になる、と脚本の大石静さんがおっしゃっていた通り大河「光る君へ」は初回から衝撃の血しぶきで、今週はネット界隈が大騒ぎだ。
刀を振るった道兼を演じる玉置玲央さんの演技も見事で「大奥」の黒木の雨の中の慟哭で完全にファンになっていた私も、予想以上の素晴らしい表現力だった。
多くの人は道兼をサイコパスだ、ホラーだ、あんな人間許せないと怒ってある。
恐ろしいのはそんな彼を、どこか憎めないというか、同情させてしまう玉置玲央の演技と、もしかしたら脚本もなのかも?と推察している。そのどこまでが演技で、どこからが演出で、どのくらい脚本が意図していることかもわからないけど。私はひどく道兼に同情し、誰か彼を救ってほしいと切に願うのだ。
人殺しは許せない。暴力も同じだ。しかも年下や身分の低いものを狙い、当たり前にぶつけていく思考回路には身震いする。
それでも私は道兼のような男性を何人か見てきたし、自身が道兼だと自覚のない男性も知っている。

道兼のバイオレンスが発動するトリガーは2種類あった。
ひとつは、道兼自身の弱点を突かれたとき。
のちの道長こと三郎から「己れの思い通りにいかないときに、その憤りを弱きものにぶつけるは、器の小さき者のすること」とズバリ指摘された。また従者からも「道兼さまを黙らせるとはたいしたおなごだ」と呟かれる。
この一言がなければまひろの母ちやはは刺されなかったのにと悔やむ声も大きい。彼の怒りの矛先が発言した従者へではなく、美しい母親であるちやはに向かったということは、彼の弱点が、母を思わせる年上の美しい女性にあることを意味している。

道兼バイオレンストリガーのふたつ目は母親や姉だ。彼女たち愛する年上女性から、嫌われた!愛されてない!と感じた時、彼の形相は一変する。
道兼は母時姫に叱られたり、兄道隆と比べられてからかわれ気味にディスられたときに、ものすごく切ない顔をするのだ。
その表情がいかにも愛情に飢えていて、刺さる女性には母性を刺激されること間違いなしの顔である。けしからん。
入内する姉、詮子が三郎に、帝が貴方みたいだったらよいのに、と言っているときに道兼は通りかかる。いきなり道兼は詮子と三郎を間を忌々し気に割って入る。場面が暗いのでそうは見えないけれど、いかにもジェラスガイ行動で笑ってしまう。そのあと、三郎に殴るけるを始めるのだ。詮子は三郎は悪くないのに!と憤るが、そう、三郎は悪くない。はけ口にされてるだけで、悪いのはトリガーを作った詮子お姉さんあなただだよ、と私はツッコミたくなる。
この詮子お姉さんは入内してときめいたのちにも、三郎にだけ手紙を出して、道兼バイオレンス発動トリガーの布石も敷いてしまう。

無論いちばんトリガーを持っているのは道兼の母親の時姫さん。この時姫さんはセーラームーンやミサトさんを演じた三石琴乃さんが演じていてめちゃめちゃ魅力的。彼女が道兼を叱ると、道兼は子どものように切ない顔をする。母親にからかわれても同様。彼が兄道隆のようにお相手を見つけきれずにいるのはもしかしたら美しい母親時姫さんへの思慕のせいでは?となんとなく邪推する。
この時姫さんは美しいだけでなく優しく、愛情深く、賢く、道兼をとても心配している。
けれど、おそらく、絶対、道兼が母親時姫さんを狂おしいほど想っていることは気づいていない。なので、平気で、相手を見つけてこない道兼をからかうし、強く叱る。
同じように姉の詮子も、自分が三郎を可愛がることで、道兼を追いつめていることに気づいていない。
魅力的な女性ふたりが、自分たちがどれほど道兼に愛されていて、その言動が彼にどれだけ影響を与えるか知っていたら、また状況は違っていただろうと思う。三郎ももう少し穏やかに日々を送れたであろうし、ちやはも死なずに済んだかもしれない。

愛されるということは、愛してくれる人の命を握ることだなと常々思う。
一度愛されてしまうと、その言動は、ささいなことで、愛してくれる男性を傷つけ、致命傷を与え、死に至らしめることもあるし、そこから暴力が生まれ、別の誰かを大いに傷つけることにもなりうる。愛に傷ついた男の行き場のないエネルギーほど怖いものはない。誰かを狂おしく愛する男ほど傷つきやすく、凶暴になるのだ。

脚本家の大石静さんがどこまでこの愛と暴力の関係性を意識して書いたかはわからない。
この連鎖をセリフでなくて状況で書いているところもスゴいし、どこからが玉置玲央さんの演技なのか、もしくら演出なのかもわからない。
それでも改めて読み直した源氏物語では、愛することが暴力になることがそのまま描かれている。
冒頭の巻、源氏の母のことを書いた「桐壷」では、帝と桐壷の更衣の純愛を描いているようで、それ以上に、後宮の女たちの憎悪や、臣下たちの困惑をじっくり描いている。愛し合うことの素晴らしさと同じくらい、愛を得られないひとたちの苦しみと憎悪と暴力がくまなく表現されていて、よくもまあここまでリアルにと感心する。きっと多くそんな情景を散々見てきたのでしょうね。リアル後宮にお務めされてきたわけですし。

脚本家の大石静さんもきっと、愛の美しくかけがえのない瞬間と同じくらい、それに付随して発生する暴力も描きたいのだろうと桐壺を読みながら感じた。
愛されるということは、暴力も生み出すよ、それを受け止める覚悟はある?そもそも自覚はある?
愛された時点で、あなたは愛する人の命を握っているよ?問われているような第一回だった。

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