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少年たちを「喪失」に向き合わせたもの

村上春樹の作品たちは私が勝手に暴力的な分類をすると大まかにいくつかの傾向がある。

①ある日主人公が、何かを失っている、失ったことに気づいてそれを取り戻すための冒険に出かけるもの「羊を巡る冒険」「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」主に長編

②「僕」が友達の日々の屈託を受け入れていくもの「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「回転木馬のデッドヒート」初期の短編や中編

③三角関係を秘めた恋愛もの「ノルウェイの森」「蜂蜜パイ」「イエスタデイ」

そして今回メインに考える

④人生に向き合えてないがゆえに生活がいつのまにか崩れていくもの

「嘔吐1979」のように初期にも見られるが、『東京奇譚集』の「品川猿」「偶然の旅人」『レキシントンの幽霊』の表題作と「トニー滝谷」など2000年以降の短編集に多く、『女のいない男たち』のなかの「木野」そして「ドライブ・マイ・カー」もそれにあたる。

主人公は大体において裕福な生活をし、才能にも恵まれ、食べていくことには特に不自由してない。自分の世界観のなかで、まあまあ満足してる生活を送っている。現代の私たちにありがちな風景だ。

そこにいきなり、喪失が訪れる。もしくは、あることをきっかけに、突然、自分はずっと喪失していたことに気づく。呆然としたり、それを取り戻すためにのたうち回るほどの苦しみを経験する。彼らを取り巻く世界は取り返しのつかないほど崩壊する。

それが突然なのは、無意識のうちにずっと喪失と向き合うことを恐れていたから。貧困や戦争などわかりやすい喪失の記号があれば気づくものも、恵まれた環境のせいか気づかない。ひずみは知らず知らずのうちに、彼らの心や身体や世界を蝕んでいく。

私がビートルズの5番目のアルバム『ヘルプ!』を感じるのはそういう苦しさだ。華やかな環境に霞まされて自分の中にどんどん膨らんでいくひずみに気づいていない、もしくは薄々気づいているけれど、向き合えてない。傷つくことを避けているせいで、傷つかないでいるせいで、とりかえしがつかないほど、世界にズレが生じてしまう。

おバカだったり軽快だったり悲壮だったりとチグハグなズレが、アルバムを聴く私にしんどさ感じさせる。魅力的なのに気持ちの浮き沈みが激しい、陽気なのにすぐに泣きついてくるハッピー・サッド的不安定な男友達に寄り添ってるような気分だ。

そんな彼らが、ビートルズ中期になると、正面から喪失に向き合い出す。それを子ども時代のノスタルジーのなかに探したり、つかみどころのない女性の中に探して途方に暮れたり、個を超越した神や教会や教祖のようなものに想いを馳せたりと、村上春樹に風に言えばそれぞれの「井戸に降りて」行き、失われた何かを求めて長い旅や冒険に出るようになる。

イノセントにはしゃぐだけだった、問題には向き合う暇もないアイドルのていで疾走していた彼らなのに、いきなりそれが可能なり、それぞれの旅を始めることができたのは、何故か。64年にディラン教わったマリファナなどのドラッグによるものとすることもできるだろうし、それも私は否定しない。

私はひとつの別の大きな要因として、英国女王陛下からのMBE勲章授与があったと思っている。

叙勲により彼らは若さの賞味期限ギリギリの疾走時代を終わらせ、自分たちを蝕む喪失と向き合い始めるアーティスティックな中期をスタートすることができた。自らの喪失に光を当て、録音技術の向上や前衛音楽やアートなど芸術からの影響を受けて表現の深みに繋げることができた。

グループを変えるほどの大きなエネルギーと影響力を持つものは強烈な光とともに深い影も作り出す。彼らは叙勲のもたらした光によって創造の力を得たと同時に、叙勲が巻き起こしたうごめく影の闇たちにも苦しむことになる。


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