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原爆とアウシュヴィッツ

原子爆弾とアウシュヴィッツはどこか似ている。
それは第二次世界大戦末期という同時期の悲劇、というだけでなく、人類に対して一方的で圧倒的な大量虐殺という凄惨さを含んでいるからと思う。

祖母を通して、私の身体にはこの2つの恐怖が幼いときから染み込んでいた。

長崎で戦後に父が生まれる前、幼い伯父と共に被爆した祖母。独身時代は小学校の先生を仕事を経て、結婚前に修道院に入っていた。シスター、修道女になることは当時の長崎のカトリックの娘にはお決まりのコースだったらしい。

そこで聖母の騎士で伝導に来てあったマキシミリアノ・コルベ神父と出会い、教えを受けたそうだ。

祖母はマリアさま、イエスさま、パパさまと呼ばれた当時の法王ヨハネ・パウロ二世、そして直接教えを受けたコルベ神父のことを話すときは、まるで恋する乙女のような熱意で何度も私に語った。

幸せな師弟関係を結んだあと、師であるコルベ神父は帰国後アウシュヴィッツに送られ、脱走兵の身代わりを自ら志願して餓死室に送られて殉教を果たし、
弟子である祖母はその後長崎後で原子爆弾に被爆する。

世界的なふたつの悲劇を、私は祖母からくり返し語られて育った。

同じ頃、祖母が涙を流して感動にむせぶように喜んでいたのがパパさまことヨハネ・パウロ二世の来日で、彼が被爆者のホームを訪れてひとりひとりに祝福を与えたときの様子は私も幼心に焼き付いている。

私がその後子どもたちの合唱団を引き連れて被爆者ホームを訪れたのも、私に課された何かを果たしたかったのかもしれない。

パパさまことヨハネ・パウロ二世も同郷のコルベ神父を尊敬し、またマリア信仰も強かった。

マリアさまが亡くなられたのは8月15日のお盆で、被昇天の日として祀られる日と重なる。
祖母は8月13日に、コルベ神父は8月14日それぞれ亡くなり、お盆の三ヶ日はカトリックの私にとっても大切な日々だ。

終戦をお盆に迎えた日本も、戦争と死、亡くなったかたがたへの思いが重なる時期。

答えを出す必要はないし、出すつもりもないし、ただこの日、死や戦争、亡き人に想いを馳せてみよう。


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