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【イマジンは甘くない】IMAGINE無き偽善者は正義を騙り暴力をふるう

ジョン・レノンが「IMAGINE」を発表する時に「この曲は言いたいことをシュガーコーティングした」と言っていたのは有名な話だ。当時彼の発表した作品たちを見ても「Give Peace a Chance 平和を我等に」「Gimme Some Truth真実をがほしい」など当時の政治に異を唱えたものが多いし直接的には反戦活動家の「John Sinclair」釈放を訴えた曲を歌ったコンサートはFBI捜査官が会場に赴いてチェックされるほどだった。

「IMAGINE」は表向きは子ども向けの詩のようにシンプルでわかりやすく抽象的。だからこそ911や世界で繰り広げられたテロのみに限らず、世界的な危機に陥ったコロナによるパンデミックのときにも世界中の人に歌われ私たをち繋げ、励ましてくれた。

「イマジンIMAGINE」は甘いのか。

この作品は近年、オノ・ヨーコさんとの共作であると認められた。「想像しなさい」という言葉が彼女の詩集「グレープフルーツジュース」にも登場するように、ヨーコさんの創意や意思もそこに含まれているからだ。

ここで「IMAGINE」の甘くないルーツを掘り下げていこうと思う。人はいかなるときにIMAGINEし、IMAGINEなき人々を凌駕するのか。

まず、IMAGINEという言葉を物語の冒頭から飛び出させるや否や、短い章に18回もIMAGINEを連発し、その後もことあるごとにIMAGINEを作品全編に行き渡らせた少女が主人公の小説を知っている。

アンとう名の少女Anne with an E、グリンゲイブルズのアンAnne of Green Gables、赤毛のアンことアン・シャーリーだ。

彼女は物語に登場し、マシューと馬車の上で話し始めるや否やYou could imagine you were dwelling in mable hole?大理石の御屋敷にいるみたいじゃない?を始め以後次の見開き2ページに渡って9回のimagineを、同じ章の中の「Matthew Cuthbert is Surprised"マシューカスバート驚く」が終るまでの11ページの中で18回もimagineやimaginationを使っている。

この作品が1908年の作品でなかったら、モンゴメリはジョンレノンのファンだったのかも?と勘ぐるくらいのイマジン連発多発だ。

もちろんこの部分だけでなく、全体を通してもアンはIMAGINEの大切さを説いていく。

彼女がIMAGINEを唱えるのはどんなときか。

この作品にはプリンスエドワード島の素晴らしい自然や、そこで暮らす人々の愛情や優しさがふんだんに散りばめられているが、そういうとにはIMAGINEは登場しない。

IMAGINEは、アンが受け入れるのが難しい現実や、心無いことを言う人が現れた時、逆境に置かれた時に出てくる。

彼女はツラい日々を送った孤児院ではずっと想像IMAGINEしていた。また美人ではない自分の容姿に失望しないために、必死に自分の容姿や理想の服装をIMAGINE想像する。アンのことをみっともない赤毛だと揶揄したレイチェル夫人や、ミニー・メイの危篤に際して何の準備もせずに嘆くだけの女中にも、想像力を持ってたらそんなことはしないし、もっと他にできることがあったはずだ!と憤る。

ドラマ化されたアンとう名の少女Anne with an Eでコールという少年は、アンの気高さを想像力によるものだ、と訴えている。孤児院の他の少女たちのように人を虐め、陰口を叩き、誰にも愛されない姿に堕ちなかったのは、ツラいときに想像力をはたらかせて気高く優しくあったからだと。

アンはIMAGINE想像することによって苦境を乗り切りかつ、IMAGINE無きひとに苦言を呈す。

IMAGINE無き言葉は人を傷つけ、苦境の際にIMAGINEせず思考停止に陥ることは現状を諦めて自分自身をも貶めてしまうことだからだ。

アンはマシューへのIMAGINE語りよってグリンゲイブルスという家庭を勝ち取り、リンド夫人の許しを得、ミニー・メイを救い、ダイアナとの友情を復活させ、物語の最後にはレドモンド大学進学とエイブリー奨学金と将来の伴侶ギルバートを勝ち取る。

冒頭で何も持たない孤児院育ちの不美人な女の子が、IMAGINEによって超絶リア充の美人になっていく。あんなに愛情に飢えたみずぼらしい女の子だったのに。

このAnne、実はある作品に既に登場している。そして、その物語の主人公もIMAGINEすることに長けている少女だ。

「小公女A Little Princess」

主人公のセーラは常に想像をしている。imagineという言葉も多く出てくるが、guess、pretend、If I wereというごっこ遊びや想像遊びが出てこないページがない。苦境に陥り、ひもじい暮らしを強いられる彼女が誇りを失わないのは、常に公女さま、プリンセスのようにあらんと常に想像しているためだ。そしてそれがゆえ、彼女をいじめるミンチン先生やラビニアはなお一層セーラを憎み、怯えることになる。

世界名作劇場のアニメは当時日本で流行ったドラマ「おしん」の余波せいかひたすら耐え抜く従順な少女としてセーラが描かれたが、原作を読み込んでいくとセーラ像はかなり違う。原作セーラはアニメよりずっと気が強く、ミンチン先生やラビニアにもこちらがヒヤヒヤするような強いセリフを吐いて撃退する。ハリウッドで映画化されたものを見るとセーラのプリンセス気取りを笑うミンチン先生に「女の子はみんなプリンセスなのよ!お父さんにそう言われて愛されなかったの?」と叫び、ミンチン先生は発狂したように泣き叫ぶ。

彼女の一番の魅力は美しい外見や、お金持ちであることではなく、お話を作り、それを豊かに表現して聞かせることであるとしっかり原作にも書いてある。それは彼女の狼のような読書量の賜物だ。その想像力は小さく弱いものを助け、想像力なく驕り高ぶった人々を討つために立ち上がりもする。彼女にはそういう騎士のような短気な面もあると彼女を溺愛していた父親も語っている。

彼女は常に王女であり、兵士であろうとする。そして、その想像力は目の前に現実に4ペンス銀貨を出現させ、みずぼらしい屋根裏にごちそうと暖かい寝具を用意させ、ついには父の共同経営者の庇護とダイヤモンド鉱山の遺産とを掴ませる。

それはひたすら耐える従順なチカラが与えたものではなく、想像力、IMAGINEするチカラが与えた、苦境を覆し現実に望むものを眼の前で実現させる力なのだ。

Anneという少女はA Little Princess小公女の物語の中盤に登場し、セーラが想像力で出現させた4ペンス銀貨によって購入した甘パンを与えられて飢えを満たす。そしてその行いに感動したパン屋の女将さんから引き取られ、裕福になったセーラに代わって飢えた子どもたちにパンを与える役目を担い、物語を閉じる。A Little Princessの最後の章はAnneである。

赤毛のアンの発表が1905年、小公女の発表が1908年であることを考えると難しいが、小公女の発表以前にバーネットは1888年に「Sara Crewe, or What Happened at Miss Minchin's"(セーラ・クルー、またはミンチン学院で何が起きたか)」を雑誌の連載を始め、その後同タイトルの戯曲を発表して大ヒットを納めているのでモンゴメリがコレを読んだ可能性は高い。アンは結婚後は生活の中でよく雑誌を眺めている。(同じようにしてピーターパンも小説発表前に戯曲として有名になっている)

IMAGINEの詩に貢献したオノ・ヨーコさんはもちろんこの2つの作品を当時の基本的な教養として読んでいたと思われる。ポール・マッカートニーの妻になるリンダ・イーストマンも通っていたニューヨークの名門サラローレンス大学にて、当時珍しいアジア系の女子として浮いていたヨーコさんはいつも木に登って本を読んでいたという。「Daddy-Long-Legsあしながおじさん」のジュディもニューヨークの大学に入学してすぐ、自分が当時の少女たちが当たり前に読んでいる「Little Women四姉妹(若草物語)」など全然知らないことに焦りをおぼえ、密かに大急ぎで読書しまくる。当時の教育を受けた女性として、想像力に溢れたAnneや想像力で苦境を乗り切ったセーラは最低限の教養であったと共に、身近にあったことだろう。

私は今まで何度もの書いてきたが、アンはメルヘンな少女小説ではなく、ドラマでも表現されて賛否両論あったように大人や現代の社会問題が潜む文学だ。小公女もアニメのような従順に耐えるお涙頂戴の可哀想な少女ではなく、誇り高く少々短気で勇ましい、想像力豊かな女性だ。

少女も想像力も甘くない。

それは消して倒れず、攻撃されても迫害されても挫けず、想像力のない虚ろなひとびとには消して負けない強さと過激さを持っている。

ジョンも、ヨーコさんも、アンもセーラも、想像力IMAGINEのないものが、いかに愚かで偽善的で横暴で、罪もないひとを叩き、陥れるか、知り尽くしていたのだろう。

教養高き少女だったオノ・ヨーコさんが、いかにバッシングを受けても差別を受けても誇り高くあったか。愛を守り、ジョンを守ったか。

IMAGINEのルーツはそういうところにあるのだと思う。

IMAGINEは甘くない。IMAGINEは強い。IMAGINEはチカラであり、IMAGINE無き虚ろなひとたちを戦う武器になりうる。私たちが望む世界を手に入れるための強力な手段なのだ。

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