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『乾杯のレモン水』

 わたしの母はレモン水が好きなひとだった。キッチンで丁寧にレモンを切り、透き通った水のなかにそっとレモンを添える母の白い指を、いまでもときどき思い出す。レモン水を優雅に飲む母の姿はとても美しくみえて、わたしの憧れだった。

 そんな母をみているうちに、わたしも飲んでみたいと、必然のようにそう思うようになった。でも、まだわたしには似合わないと冷静に考えている自分もいた。もっときちんと年を重ねて、きちんと大人になったら飲んでみよう。幼心にそう決めていた。

 だから、そのときがくるのはまだまだ遠い未来のことだと思っていた。けれど、想像していたよりもすぐに“その日”はやってきた。
 
 あれはたしか、わたしが小学四年生のときーー季節は初夏、だった。




 その日、学校ですごくいやなことがあった。泣きたくて、ままの胸にいますぐ飛びこみたくて、でも必死で涙をこらえていた。ままならこんなことで泣いたりしない、って思ったから。

 いまにも零れ落ちそうな涙を目の奥に隠しながら、なんとか家まで戻った。玄関のドアを開けると、ままがいつものように小走りで駆け寄ってきて、「おかえりなさい」といってくれた。 
 わたしは自分が泣きそうな顔をしていないかすごく心配で、「……ただいま」とだけいってすぐにリビングまで走った。  

 「なにかいやなことでもあった?」

 そんなわたしの様子をみて、ままが心配そうにわたしの顔をのぞきこむ。やっぱりままにはすべてお見通しみたいだ。
 でもわたしは、「ううん」と大きく首をふった。わたしの様子がおかしいことなんかとっくにばれているはずだけど、子どもながらの精一杯の強がりと、自分への抵抗だった。

 「綾菜。ここに座っててごらん」

 ままがテーブルの椅子をひいて手招きをする。

 「……」

 わたしはおとなしくそこに座った。ままが、「ちょっと待っててね」といってキッチンへ向かった。ランドセルを椅子に置いてままが行ったほうをみていると、キッチンから、カラン、と氷の音がした。そして、とぽとぽ、とかすかな水の音。

 「おまたせ」

 戻ってきたままの両手には、ふたつのグラスが握られていた。

 「はい。これはままからのプレゼント」

 そういって、わたしの前にグラスをとん、と置いた。うさぎのイラストが描かれた、わたしのお気に入りのグラス。その中には、透き通ったお水と、ひと切れのレモンが浮かんでいた。

 「……これ、いつもままが飲んでるもの?」

 もしかして自分のぶんを作ってるうちに、うっかりわたしのグラスにもレモンを落としちゃったのかな。
 そんな不思議なことを思いながら、目の前に置かれたグラスをじっとみつめる。

 「綾菜、いつもままが飲むレモン水、うらやましそうに見てたものね」

 ままが目を細めながらわたしの顔を見る。

 「知ってたの?」

 「だって綾菜のいちばんそばにいるんだもの、わかるわよ」

 ままがわたしの目をまっすぐにみつめる。

 「あのね、綾菜。なにか悲しいことがあったなら、泣いてもいいのよ。涙をがまんすることがいいことだなんて思わないから。でも綾菜もまたひとつ大人になったみたいだから、記念に挑戦してみてもいいんじゃないかな」

 そのことばに、冷たくなっていた胸が温まっていくのを感じた。やっぱりままのことばはいつだって優しい。
 わたしは、そっとグラスに手をのばした。ずっと憧れていたレモン水が、いまわたしのてのひらの中にある。すごく不思議な気持ちだ。わたしはすこし息を整えて、そしてゆっくりと、一口を喉に流し込んでみた。
 でもその瞬間、独特なすっぱさと味が口のなかを刺激して、思わず顔をしかめてしまった。想像していた味とは程遠い。これなら、いつも飲んでるお水のほうがよっぽどおいしい。

 「なにこれぇ。まずいよ……?」

 わたしのくしゃくしゃになった顔を見て、ふふ、とままはおもしろそうに笑う。

 「やっぱりまだ早かったかな?」

 そういって、ままも一口レモン水を飲んだ。その姿はやっぱりきれいで、憧れで、わたしはつい見惚れてしまう。

 「これがおいしいなって思えるようになったら、綾菜ももう立派な大人ね」

 そのことばに、わたしは思わず「無理だよ」と言い放った。同時に、さっきまで一生懸命がまんしていた涙がぽつりぽつりと目からあふれ出てきた。

 「綾菜、ままみたいにレモン水飲めなかったもん。ままみたいにきれいな大人になんか、やっぱりなれないんだ」

 もう涙を止めることはできなかった。すこしの間、ままもわたしも無言だった。

 「ねえ、綾菜」

 ままがグラスをそっとなでる。白くて細い指に、かすかに水滴がついた。

 「ままもね、お母さん……あなたのおばあちゃんみたいな大人に早くなりたくて、こっそりお水にレモンを入れて飲んでみたことがあったの」

 ままがいたずらっ子みたいに笑う。

 「それでね、どうなったと思う?……一口飲んだけど、やっぱり全然おいしくなくって、さっきの綾菜みたいに思わずむせちゃった」

 わたしはきょとん、としてしまった。だって、レモン水を飲んでむせるままなんて、全然想像できなかったから。

 「それから一口も飲んでこなかったの。でもね、大学生のときにレストランでレモン水が出てきて仕方なく飲んだんだけど、そのときはすごくおいしくて。びっくりしちゃった」

 懐かしそうにままがはにかむ。

 「そのときに、すこしはおばあちゃんみたいな大人の女性に近づけたかな、って思えたの。一生レモン水なんか好きになれない、って思ってたけど、やっぱりちゃんと大人になっていくものね」

 頬づえをつきながら、ままはわたしの顔をまっすぐみつめた。

 「だからね、いまを急いで大人になろうとしなくても大丈夫。ままと一緒に、ゆっくり大人になっていこうね」

 そのことばを聞いて、自然と涙がとまる。やっぱりままは、わたしの憧れだ。

 「……うんっ」

 「そうだ。特別にもうひとつ、これもプレゼントしちゃおうかな」

 ままがまたいたずらっ子みたいに笑った。

 「なに、なに?」
 「綾菜にとっておきのことばを教えてあげる」
 「ことば?」

 ままはひと呼吸置いて、そして口を開く。

 「ーー“乾杯”。飲み物をたしなむ前に、よく使うことばよ」

 そういって、ままは持っていたグラスとわたしのグラスをそっと触れ合わせた。こつん、と軽い音がする。

 「こうやって、相手と自分のグラスをくっつけて乾杯っていうの。綾菜には、これがお上品にいえる大人になってほしいな」
 「わあ……。これ、ぱぱとままがよくやってるやつでしょう?」
 「あら、よく知ってるのね」
 「うん。なんかかっこいいなあ、って思ってたの。いつか綾菜もやってみたかったんだ」

 ままがグラスをかたむける。わたしもおなじようにグラスをかたむけた。

 「じゃあ綾菜。……乾杯」
 「……かんぱい」

 初めて口にしたそのことばは、ちょっぴりだけど、わたしを大人にしてくれた気がした。



 ベランダで夜風にあたっていると、そんな昔のことを思い出した。

 ーーなんでいま思い出したんだろう。

 そのとき、なにかひんやりしたものが頬を触った。

 思わず「ひゃっ」と声を出して振り返ると、夫が「びっくりした?」と笑いながらわたしの顔をのぞきこんできた。手には、たっぷりの氷とお水が入った、透明なグラス。そして氷の間からは、きれいに輪切りされたレモンのかけらがひとつ、顔をのぞかせていた。

 「なんかレモン水が飲みたそうな顔してたから」

 そういって、はい、とグラスを渡す。

 「レモン水が飲みたそうな顔って、どんな顔?」

 わたしも思わず笑ってしまう。そして、ありがとう、と受け取る。
 
 そっか、わたしはレモン水が飲みたくなって、昔のことを思い出していたのかな。

 わたしは彼の肩へそっと近づく。彼もすこし首をかたむけて、そして、せーの、とちいさくささやいた。

 「「ーー乾杯」」

 彼とグラスを合わせると、カラン、と氷が音を立てた。そのままゆっくりと唇にグラスを当てる。
 
 
 すやすやと眠る小さな娘を抱きながら飲むレモン水は、とても美味しかった。
 

最後までお読みいただきありがとうございます✽ふと思い出したときにまた立ち寄っていただけるとうれしいです。