夏の夜。淡い記憶。


ー言葉ってさ、すごく儚いよね。


洗濯を干そうとベランダに出たとき、そうつぶやいた彼の顔が、ふっと浮かんだ。
なぜだろう、もう何年も前のことなのに、ふいに思い出したのにはなにか理由があるのだろうか。
そう考えてすぐに、「あ、そっか」と声を出す。もうすぐ、夏だ。この生温い空気がわたしの肌を撫でた瞬間、わたしはあの日のことー彼のことを思い出したのだ。

ほら、思い出の季節がやって来るよ。

季節がそう、告げに来たのだろうか。



ー“好きです。”

勇気をふりしぼって先輩にその言葉を伝えた、ある夏の夜。
先輩が最初に発した言葉が、冒頭のそれだった。

ー儚い…ですか?

先輩がなにを言いたいのかわからなくて、わたしは首をかしげる。

ーそう。例えば音楽もさ、色んな音が現れては消え、現れては消え…の重なり合いじゃん。全部の音がずーっと残ってるわけじゃなくて、俺たちの耳に入るのはそれを聴いていた、ほんの一瞬だけでしょ?

空を仰ぐ先輩。まだ心臓の鼓動が止まらず、必死で抑えようとするわたし。
この余裕の差が、なんだか悔しい。

ー言葉も同じだよな、って思ったわけ。きみがいま言ってくれた「好き」って言葉は、この世界で俺ひとりしか聞いてないし、その言葉はほら、もうこの瞬間には存在しないじゃん。好きって言ってくれた瞬間は存在してたはずなのに、もう消えちゃってる。なんか儚くない?

そこまで言って、わたしのほうを見る。
わたしは不安になって、手をぎゅっと握りしめた。なにか言葉を発しようとして口を開きかけたとき、

ーまあ存在なんてどうでもいいんだけどね、誰かの心にずっと残れば。

その声に、握りしめていた手をふっと無意識に緩めた。

そっと、わたしの頭を撫でる先輩。まるで仔猫を可愛がる飼い主みたいにとても温かい笑顔をしていた。そして…。


ー俺も、きみが好きだよ。



夏の夜の、淡い淡い、記憶。

最後までお読みいただきありがとうございます✽ふと思い出したときにまた立ち寄っていただけるとうれしいです。