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10歳の愛兎が亡くなりました

※現在老齢期のペットを飼われている方、ペットの死に不安を感じている方は閲覧注意。しかし誰もが直面するかもしれないライフステージの一角です。


 2024年5月10日(金)12:15頃、突然の呼吸困難により息を引き取りました。正確な誕生日は不明ですが10歳半くらいのオスのミニウサギでした。

 今年1月後半に左前肢に腫瘍を発見、高齢ということもあり手術による死亡リスクが高いとされ在宅での緩和ケアで経過を見守ることになりました。

 腫瘍はみるみるうちに大きくなり、5月に入ってついに寝たきりに。食欲はあったものの日に日に症状が変化していき、後駆麻痺で足を触っても反応がなくなりました。2、3時間おきにお尻を拭いていましたが、便の状態は悪くありませんでした。

 最後まで自分でトイレに行こうとしたり這い出してどこかへ移動しようとしていた。自己主張自立心が高い子だけに歩けなくなったこと、自力で排泄出来なくなったことは本人にとってもショッキングだったと思います。

 正直安楽死も考えました。苦しいかもしれないが、この子のタイミングで逝かせてあげたかった。病院という慣れない場所で不安な気持ちにさせたくなかった。

4月頃の腫瘍の様子。圧迫からか涙が出ていた。


激動の時代を一緒に生きた相棒

 このブログではあまり触れることはありませんでしたが、母との衝突や他の人間関係の悩みで打ちひしがれていた時いつも側にいてくれたのは彼でした。

 10年前といえば筆者は25歳。仕事を転々としながら発達障害という特性を模索していた真っ最中。精神的に荒れに荒れていたしウサギを飼い始めた最初の数年は正直不安な気持ちにさせてしまったと思う。

 ウサギの方も未去勢の男の子で血気盛んの暴れん坊。家中を探索していろいろなものを壊しました。朝方に活動するので毎朝4時頃に筆者の布団に上がり掘り掘り、全部布団を剥がされてお昼頃まで腰をカクカク。ウサギがリラックスタイムに入った昼下がりから筆者は仕事に行き、夜に帰ると元気に出迎えてくれました。

 いろんなことがあって引っ越し後は移動の疲れか初めて体調を崩しました。一ヵ月程度下痢をしながらも元気に回復。その後の体調不良といえば換毛期後に起こるうっ滞を一年に一度くらい合計三度ほど経験しましたが、それらも3日ほどで全快していました。

 入念にブラッシングするようになってうっ滞は起こりにくくなったような気がしますがそれまではあまり体調の変化に気付けないことや、外出する時間が長いことがあり今思えば良くない行動をしていたと思う。

君の「起きて起きて」アラームが楽しみだった


気持ちがシンクロした中高年期

 彼は年齢を重ねても活動的で9歳後半まで性欲も衰えなかったし、相変わらずスマホの充電ケーブルは何十本も齧られた。ただ変わったことといえば筆者の側にいることが増えたことでした。

 ケージで暮らすことを嫌っていたので早期から放し飼いにさせていました。猫のように高い場所に登ってそこでのんびりするのが大好きでした。だから同じ部屋でもお互いに距離感があった。

 筆者が母や他の交友関係者とトラブル抱えていた時期、精神的にかなり落ち込み、アルコールに走ったり毎日激しく泣いたりしていて酷い状態だった。たまに眠っても母に追いかけられる夢を見て自分の絶叫で起きる。そんな時必ず彼が来て静かに香箱座りをして見つめていました。

 いつも大暴れしてご飯の催促をするのに悪夢にうなされている時は必ずこの状態になって筆者が落ち着くまで何もせず側で見守ってくれました。

 ウサギは人間の出すフェロモンに敏感で何故か汗の匂いで発情してくることもあれば、危険や恐怖を感じている時は仲間同士寄り添って身を守ろうとする。多分そういうことなんだろう。

 目を開けた時に筆者の顔を覗き込んでくる彼の姿は忘れられない。

 亡くなる数週間前。コンビニに買い物に出て戻ると筆者の布団の上に座っていた。若い時はいつもこうやって筆者の帰りを待っていてくれたが、腫瘍が重くてほとんど動けない時期だった。これが最後の出迎えになってしまった。

その背中は悲しそうに見えた


ペットロスと向き合うこと

 最期にせめて食事だけは楽しんでもらおうと高い野菜や牧草を購入したが残ってしまったし、何故か捨てたくない気持ちがある。一番大好きだった小松菜は彼が亡くなって一週間経った今も色褪せずに生き生きとしている。

 あれから毎日涙を流さない日はない。

 ペットロスについてネットで調べたりする。こんな気持ちになりたくないからもう二度とペットは飼わないという人、新しい子を迎えて乗り越えようとする人。どっちの気持ちもわかる。

 亡くなる前はペットロスに関する情報なんか見たくなかったし老齢期の動物を見るのも辛かった。だからこの記事をナンセンスと思われても仕方ないと思ってる。でも亡くなってから他の人がどう過ごしたのか気になった。だから誰かに必要になるかもしれないと思って書いているし、自分の中のひとつの区切りでもある。

 確かに最期の一ヵ月は死ぬほど苦しかった。でも9年と11ヶ月は夢のような楽しい日々でどんなに辛くても笑顔にしてくれた。彼が同じ幸せを感じてくれたかどうかわからないが自分なりに全力は尽くしたつもりだ。

 毎日一緒にご飯を食べてくれて、真冬には一緒の布団で寝てくれた。少なくとも仲間だと思ってくれての行動だと思う。

小松菜の袋を開ける音が大好きだった


 筆者は子供の頃から動物が大好きで小動物のみだが常にペットがいる生活を続けてきた。今はとても辛いし同じ思いもしたくない。しかし筆者の健康寿命的にも最後にもう一度人生の相棒に出会いたいと考えている。

 今そんなことを考えるのは不謹慎で身勝手な感情だと思う。
 それでも朝起きてご飯の支度や掃除をすることがなくなり、外出先から帰って抱きしめる相手がいない、おやすみを言う相手がいない、ガランと空いたあの子の寝床。
 そんなどうしようもない寂しさを埋めたくなってしまう感情と葛藤している。


 とある5chの書き込みにこんな言葉がありました。

「ペットの本当の死は飼い主がペットのことを忘れること」

 忘れるわけないから一生辛い、でも飼い主の中では生き続けているということだ。 

最高の相棒


 

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