教条主義の本質

お気づきの方もおられると思いますが、
私(お姉ちゃん)はいろいろなことを言っていますが、皆さんに対し何かを命令したり、禁止することはしません。
命令することは相手を支配することを意味しますが、私を含め、誰にも人を支配する権限はありません。

脅迫で支配しようとする者もいますね。
例えば、自分を篤く信仰しないと死後、私の許に来ることは許されないぞ、
だから篤く敬え、と言う者がいたとします。
そのような者の許に行けたとして、本当に幸せでしょうか。
永遠にヨイショさせられ、足元で跪かされそうですよね。

相手にしない、黙って立ち去るのがベストですが、粘着されると面倒です。
権利を侵害してくる、すなわち喧嘩を売ってきているわけなので、
残念ながら対決せざるを得ません。面倒ですが。

誰かに何かをする、もしくはしないことを提案することはあります。
内容によって、単なる提案、推奨、要請など、言い方の強さの表現は変わります。
相手に程度がより強い反対理由があるのなら、それを受け入れるしかありません。
理由の弱い反対を執拗にするのであれば、以後、相手にしないだけです。

しなければならぬ、してはならぬ、
このような制限ばかりを喜んで集める教条主義は、窮屈極まりないですよね。
考えなくて楽といえば楽ですが、果たして楽しいのでしょうか。

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