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やちむん紀行〜読谷陶器市〜

今回の沖縄の一番の目的は、読谷陶器市。

やちむんは、沖縄のことばで焼き物。昔はやちむんてどうもぽってりしていて重たくてあまり好かない印象だったが、作り手さんによって同じ柄でも全然違うことを知った。これは、器に詳しい友人と一緒に行ったから教えてもらえたこと。

やちむんの里に行くのは今回が初めてだ。陶器市はお祭りで、ハレとケで言うとハレの日。出西窯の炎の祭りに行った時に思ったが、ハレの日は非日常でワクワクするが、普段の窯元さんの日常とは全然違う。客層も、窯元さんの表情も、窯場に流れる空気さえ。なかなか行けない沖縄なので、圧倒的に長いケの方の空気感も味わいたいと思い、陶器市を2日後に控えたやちむんの里にも足を運ぶ。ひっそりと粛々と準備に向かうスタッフの人々。同じ場が、2日後には人でごった返すと思うと不思議な高揚感に身震いする。さすがに器を作っているところは見られなかったが、浮き足立っていない厳かな空気を味わえてよかった。

やちむんの歴史も、奥が深い。沖縄を代表する陶器の産地である壺屋は、かつて、首里王府の管理する官窯として成立したが、琉球から沖縄県になったことで民窯となる。時代に伴って、作るものも変わっていく。昔は重宝された貯蔵用の壺や甕という「荒焼(アラヤチ)」と呼ばれる無釉の焼締めのものから、戦後アメリカ人向けの生活スタイルに合わせて徐々に「上焼(ジョウヤチ)」という釉薬をつけた焼き物中心の生産に変わっていく。

さらに、1960年代後半になると中心市街地となった壺屋の登り窯から出る煙がばい煙として公害と見られ、生活環境を守りたい住民と陶工との摩擦がおきた。登り窯を使い続けられる環境を求めた、のちに人間国宝となる陶工金城次郎さんが、1972年読谷村に新たな登り窯を築いて壺屋から移住していったそうだ。

その後、山田真萬さんらが金城次郎さんの作った登り窯の奥に新たな登り窯「読谷山窯」を築く。さらに1992年には彼らの弟子松田共司・松田米司・宮城正享・與那原正守さんらがその北側に県内最大級の登り窯「読谷山焼北窯」を築窯する。これらが現在のヤチムンの里であり、そこで年一度開催するのが読谷陶器市だ。(参考:雑誌民藝2016年6月号「特集沖縄の工芸焼物編」)

曇天に浮かぶ登り窯は圧巻。こんなに、遮るもののないがらんとした場所にある登り窯は初めて見た。沖縄を少し学ぶと、今まで何気なく見ていた年号さえ意味を持ち始める。金城次郎さんが読谷に登り窯を築いた1972年は、沖縄返還の年。歴史と共に歩み変化しながら生きてきた文化を、器を使うことを通して日常の中に感じられることが嬉しい。

北窯の器は是非手に入れたいと思っていたが、双子の陶工である松田共司さんの器はかっこよくて、米司さんのはやさしい。宮城さんのいっちん(チョコマーカーみたいなもので絵をかくぽってりした模様)は、とてもなめらかできれいだ。言われてみれば、全然違う。日々使うオーソドックスな器はやさしい米司さんのもの。冬に大活躍しそうな日本酒を注ぐカラカラは、かっこいい共司さんのものにした。

やちむんデビュー、果たしました。

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