There will never be another you


では、それは彼女なのだ。


残業に疲れた体を引きずり、家へと向かう電車の中。そこまで遅い時間というわけではない――が、早い時間とも言いがたい。文庫本でも読もうかと思ったが、途中で億劫になり、諦めた。その小説は、もう一ヶ月ちかく、鞄の中に入りっぱなしになっている。

目の前に立つ女性の持つスマホの画面に、ふと見入った。覗いたわけではない、本当に、たまたま目に入ったそれは、あるSNSの、見慣れたパーソナルアイコン。確認のために、今度は本当に覗き込むと、見知ったスクリーンネームが表示されていた。

相互にフォローし合っていて、直接の会話は一度もないまま、しばしば同じ話題を共有する。だいたいは同意のために引用するが、まれに異論も立ててみる。そんな関係で、博識と深い洞察、少し皮肉の効いた、穿った意見をつねに持つ人物だと、一定の信頼を置いているアカウント。

では、それは彼女なのだ。


これは意外なことだった。目深にかぶった帽子のつばで、顔は見えないが、服装や染めた髪の毛から、ずいぶんと若い人物――SNSで披露する見識には、いっそ不釣合いと思えるほどの。

興味を掻き立てられるのとほぼ同時に、電車は次の駅に到着した。開くドアから、彼女は降りてゆく。思わず目で追うと、ホームで待っていたと思しき、男性らしき人物と合流する――恋人、だろうか?

この角度からでは、ふたりの顔は見えない。発着のベルで、音も聴こえない。それでも、口元やしぐさから、楽しげな様子が伝わる。笑っているのだろう、両手をかるく打ち合わせると――彼女と男性とは、お互いのスマホを交換した。

これもまた、意外…というよりも、虚を突かれた。自分のスマホではない?では、あのアカウントの本当の持ち主は、あの男性?しかし、いくら若い恋人同士でも、スマホを交換して使うなどということが?

興味はますます掻き立てられた。いっそ、この開いたドアを自分も降りて、あのふたりを追ってみるか、そう思って一歩を踏み出しかけたとき――疲れに脚がもつれ、つんのめると同時に、ドアは目の前で閉ざされた。


…われ知らず苦笑して、かぶりを振る。追いかけて、どうしようというのか?だいたい、こんな駅で降りたところで、家に帰れるわけでもない。またホームに戻り、同じ電車を待つ羽目になるだけだ。

家までは、あといくつかの駅。スマホを取り出し、SNSを起動する。さっきまで覗いていたアイコンが、数秒前に投稿した文面を見て、スマホを取り落としかけた。


"追いかけなくて、良かったな"


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?