音楽教育産業のジェダイ性について

5年や10年、ことによるとそれ以上の長期に亘って楽器(だいたいピアノである)を習ってきたが、ちょっと気に入った楽曲をちゃっちゃと弾いてみたり、アレンジを施したりして遊ぶことができない――という向きは多い。わたし自身、何人も出会ってきた。


子供相手の、ほとんどのピアノ教室というのはこのように始まる。

「では音楽の深奥をさずけよう…修業はつらく、長く、苦しいものになるであろう…まずはリトミックを…それからソルフェージュ…そしてバイエル…ハノンを欠かしてはならん…続いてソナチネを」

こんなことをやっている間に軽く5年は経っている。当然これは大抵の子供にとってひどく退屈だし、他に楽しいことはいくらでもあり、熱意はすぐに枯れていく。一方で親のほうとしても、安くない月謝を払いながら、惰性で通われていても困るので、小学校を出るか、中学校を出るかというキリのいいところで辞めさせることになる(もちろん、もっと早ければそれだけ望ましい)。

こうして、また一人のパダワンが挫折し、ヨーダだか鑑真だかが「おお…そなたは修業を投げ出した…もはやナイトへの道は断たれた…なんと嘆かわしい…」と呟いて、新しいキャラシ(だいたい4月ごろに大量に手に入る)を物色し始める。次のクローンはもっとうまくやってくれるでしょう。

嘆かわしいことだが、わたしが最大手の音楽教室で教育を施されていた80~90年代と現代において、そのやり口はほとんど変化していない。少なくとも5~6年前、わたしがその音楽教室に潜り込む、一歩か二歩の手前に至った際に確認したときはそうだった(もちろん教える側でだ――わたしをどんな男と思っておられるのか?)。


このような悲劇の原因は、多くはミスマッチである。教室の側としては、音楽の秘奥に至るための鋼の基礎をぶち込まんとする――そこに至るのが100人に1人の割ですら存在しないことを、重々承知の上で。

親のほうとしてはふつう、入会の時点でそこまでを求めてはいない。例え100人どころか60億人にただ1人の我が子のこととはいえ、将来は音楽家にしよう!などと決め打って教室に放り込む、ということは稀である(まあ、やっていくうちに「この子は音楽家になっちゃうかも!」などという妄想を温めるシーンはといえば、これはよく見られるのだが)。

そして当の子供はといえば、特に何も考えてはいない。同級の誰かがやっているのを見たから自分も、というのが一番多い線である。なに、森の中に打ち捨てられたピアノを見た?状態が悪いだろう。それ以前に不法投棄だ。

そういうわけで、自組織や業界のための芸術家の、少なくとも将来のピアノ講師の種を蒔くことを狙う教室側と、我が子の人生を彩る趣味の幅を広げてやろう、教養やたしなみの一つとしては悪くなかろうというくらいの思惑をもつ親と、なんか楽しいっぽいことをしたいだけの子供との間では、方針も道程も違っていて当然なのだ。

なお悪いことに、主導権はたいてい専門職(かつ大人)たる教室や講師の側にあるので、親や子供は言いなりになってしまいがちだ。それゆえ、この体質はそうそう変わるものではない。高邁な理想を掲げる割に内部はグダグダな、どこか胡散臭くいけ好かないあの騎士チームとよく似ている。


個人的な怨恨もあって話が長くなったが、この頁は特に、冒頭で述べた「昔ピアノ習ってたけど今もう全然だよ~」という人に向けて述べたい。

あなたが現在、楽器の演奏を楽しめないのだとしても、当時ほんの子供であったあなたの責任はごく小さい。強烈な目的意識と根気を併せ持った、稀有な神童でなかったことは、責められるべきではないのだと。

そして仮に、今からでも、そうして楽しもうと思うのならば、その方法を教えてやれるかもしれない。わたしとしては、もし、あなたが若い女性であるのならば、さらに嬉しいのだが。

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