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火星と天使

幼なじみの川村由貴が消えたのは、僕たちが15歳のときだった。それからずっと彼女を探している。

「私のお母さんはね、天使なんだ。」

幼いとき、由貴はことあるごとに、そう言った。

二人で公園で砂遊びをしているとき、さらさらと手のひらから砂をこぼして、それを自らうっとりと見ながら由貴は「お母さんは、天使なの。」と言う。

帰り道に僕と手をつなぎながら、彼女は夕暮れの色を背中に受けて、不意に僕の耳に口を寄せて「お母さんってね、天使なんだ。」と言う。僕は、その告白を何度も何度も聞きながら、返すべき言葉を得ることがついになかった。今から考えてみると、完全なものに追加すべき美しいものなど存在しない、ということだと思う。

由貴は、ことあるごとに自分の母親が天使だと告げたが、それは、僕にだけにしか打ち明けていないようだった。しかし、中学生になると、彼女は母親のことを僕にも口にすることがなくなった。

僕は、彼女の母親に会ったことがない。

僕の母親によると、由貴は、彼女の父親と二人きりで僕の家の隣の一軒家に引っ越してきたらしい。僕らが3歳のときのことだった。

それ以前は、由貴の父親の実家にいたらしいが、そこが相当な田舎であるということ以外、僕の母は彼らのことを知らなかった。僕は由貴の父親にも会ったことがない。厳密に言うと、由貴と僕とが同じ保育園に通っていたときに会っているはずだが、僕の記憶にない。

由貴が消えた日から、彼女の父親も行方がわかっていない。

僕は、二人は由貴の母親を探しに行ったのだと思っている。

由貴の母親は天使だったが、人間との子をもうけ、その罰に、火星で囚われの身になっているのだ。そのことは、由貴が消える数ヶ月前に、彼女の口から直接聞いた。

それは、彼女が自分の母について話す実に久しぶりの出来事だった。

彼女は、僕の部屋でゆっくりとボタンを外し、制服のブラウスを脱いでいった。雨の日のことだった。

窓の外は、灰色の空が広がり、暗かった。

僕の部屋の蛍光灯は寿命が近くて、チカチカとついたり消えたりした。

僕は、目が痛くて電気を消した。

灰色で暗いと思っていた空は、蛍光灯を消すと意外に明るく見えた。由貴は、やっとブラウスの袖から腕を外すと、腕を背中に回して、そっけないベージュのブラジャーのホックを外した。

ぱらりとブラジャーは床に落ち、由貴の白い肌が裸になって僕の前に現れた。

由貴は僕に背中を向けて正座した。

僕は、彼女の背中のちょうど肩の下の部分、両側の肩甲骨の内側の部分に、二つの大きな黒いシミを見つけた。

由貴は、僕の腕をとり、僕の手を彼女の背中に押しつけた。すると、ざらりとした感触が僕の手に伝わった。その手触りの部分を見てみると、さっきの黒いシミの部分だった。よく見ると、それは小さな羽根だった。由貴の背中には、黒い小さな羽根が生えていた。

「これが、お母さんの罪の証」

僕は、どうすればいいかわからずに、その小さな羽根をそっと撫でた。撫でられながら、由貴は小さな声で話を始めた。

「私のお母さんは、天使なの。でも、人間の男のひとを好きになってしまったから、偉い天使たちにつかまえられて、今は火星の牢獄にいる。私とお父さんのせいでお母さんは、ずっとひとりぼっちで、罪を償わされているの。」

スペースシャトルは、地上からわずか8分30秒で大気圏を突破し、宇宙空間へ突入する。僕は、宇宙飛行士になった。

由貴と彼女の父親がいなくなったときから、僕はずっと彼らが火星にいる由貴の母親を探しているのだろうと思っている。だから、火星に向かえば、彼らを、由貴を探す手がかりになるはずだ。

僕の乗ったスペースシャトルが大気圏を突き抜け、胸に受けていた重力から解放されると、周りのもの、ペンやファイルが浮き上がるのが見えた。

ベルトを外すと、自分の体が音もなく持ち上がる。宇宙に来たのだ。

この宇宙の先に、由貴がいる。

僕の堕天使。

#小説 #ショートショート #火星 #天使 #宇宙飛行士

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