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不特定多数のわたし

ずいぶん前に彼氏がいたときのこと。

その彼氏は優しくて面白くて人気者。仲間うちの中心的な存在で、遊びの計画に彼がいなかったら、誰もがつまらないな、と思った。

長い友人時代を経て、お付き合いすることになった。

付き合ってからは、毎朝「おはよう、今日も1日がんばろー!」とメールが来た。(その頃はまだLINEがない)夜になると電話して、電話を切った後に「大好きだよ!おやすみ」とメールが来る。彼は欠かさずそうしてくれた。

「大好きだよ」「オレの気持ちはずっと変わらないよ」「ずっと一緒にいよう」

嬉しい言葉をたくさん言ってくれた。彼女になれたから言ってもらえる言葉だった。友だちのときとは違う態度や扱いに、私は有頂天になった。

誕生日にはアクセサリーをくれて、連休には家に来て一緒に過ごす。会えるときにはデートや食事に連れて行ってくれる。優しいし、楽しい、最高の彼氏。

でも、私の気持ちはだんだん重くなっていった。

毎日毎日、彼は彼氏らしいことをしてくれる。それは彼が彼氏だからだ。彼は、毎日毎日、私に今日もがんばろう、大好きだよと言う。それは、私が彼女だから?

私は「彼氏の彼女」という透明な着ぐるみを着ているように感じた。彼は私ではなく、彼女という着ぐるみに毎日今日もがんばろう、大好きだよと言っている。ティファニーのネックレスだって、おしゃれなレストランでの食事だって、恋人という儀式のように思った。私が彼女の着ぐるみを脱いでしまえば、それを別の誰かに渡せば、あなたの愛は、移ってしまうんでしょう。別の人にも、同じことをするんでしょう。だってあなたの彼女だから。


彼とお別れをして、彼はその後幸せな結婚をしたので、きっと本当に愛する人ができたのだろうと思うから、よかったと思っている。

けれど、ネット記事やビジネス書を読んでいると、ときどきこのときの既視感を感じる。

「不特定多数の誰か」「想定された読者」「練られたターゲット」に対しての記事。透明な「読者」「消費者」「アラサー女性」という着ぐるみへの文章。それは読んでいて、ときに切なさや淋しささえ感じてしまう。「あなた」と呼びかけられても、私への呼びかけではないと気づいて気持ち悪さや違和感を感じるのだ。

だからときどき、これは私に向けられた、私のための文章だ、と思う文章に出会えるときに、本当に嬉しくなる。

文章だけではない。絵でも写真でも音楽でも商品でも広告でも、私を不特定多数の誰かにされるときに強い孤独を感じるけど、反対に、私のために作られたと思えるものに出会えると嬉しく思う。大好きになる。

私も不特定多数のあなたには書かない。いつだって魂をこめる。不愉快になってもいいし、それは違うよって思ってもいいけど、大好きな人を淋しくさせることが一番辛い、と私は思うから。淋しくなんかさせたくない。って、いつも思っているよ。

なんか、急にこのテーマが頭を占領して書きたくなりました。

また明日!明日か明後日にフジロックについて、いよいよアップします♫


#エッセイ #元カレ #着ぐるみ #不特定多数 #あなたのための #消費者

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