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邪悪について -LiveとEvil-


1.「邪悪」とは

①愛を装う

われわれ人間は一人ひとりがユニークな存在である。
人間一人ひとりの持つユニークさが、人間一人ひとりの「私という存在(アイデンティティ)」にしているのであり、人間一人ひとりに別個のアイデンティティを与えているのである。

一人ひとりの魂には境界があり、また、われわれが他人とつきあうときは、この境界を尊重するのが普通である。自分自身の自我の境界を明確にし、また、他人の自我の境界をも明確に認識することが、精神的健全性の特性でもあり、前提条件でもある。どこからどこまでが自分で、どこからどこまでが他人かをわれわれは知っていなければならない。(本文より)

およそ20年前に出版された、アメリカの心理学者M.スコット.ペック著「平気でうそをつく人たち~虚偽と邪悪の心理学」を久しぶりに読み返した。

あまり気が進まなかったのだが、少し前、神戸の小学校で「教師間のいじめ」が報道され、そのあまりに惨い内容に、ふとこの本が思い浮かんだ。

著者のいう「邪悪」な人々に触れるのは、文章といえども気が引ける。そして自分がそうでないとは言い切れない。自己分析を交え、思い当たる節に怯えつつ、どきどきしながら読んだ。

いじめをしていた教師たちを「邪悪だ」と判断しているのではない。ただ、主導役とされる40代女性教諭が、のちに謝罪として、

「(被害男性教諭を)可愛がっていたので、苦しんでいる姿を見るのは本当につらい」とか

「思いがあって接していた」

などと発言をしたというので、この心理の闇は根深いな~と思ったのだ。

この言葉が嘘臭いと感じたのはワタシだけだろうか。

「邪悪な人間が選ぶ見せかけの態度に最も共通して見られるのが、愛を装うことである。それと全く正反対のものを隠そうとする以上、当然のことである」 

と作者も述べている。怖い。こんなに人を傷つける破壊的な装いがあるだろうか。これが邪悪なウソの正体のような気がする。

このウソに晒されると、自我の境界やアイデンティティは分裂し崩壊するだろう。相手の非がこちらに移行してしまい、相手に嫌悪を感じつつも、罪悪感に陥るからである。

ああ怖い。

悪(evil)は 生(live)に対置されるものである。悪は殺すことに関係がある。

これは肉体的な殺しだけを言っているのではない。悪は精神を殺すものである。生——特に人間の生——には不可欠の特性がいろいろある。意識、可動性、知覚、成長、自律性、意志といったものがそれである。肉体を破壊することなく、こうした特性のひとつを殺す、あるいは殺そうとすることもできる。

悪とは、人間の内部または外部に住み着いている力であって、生命または生気を殺そうとするものである。

善とはこれと反対のものである。善は生命と生気を促進するものである

②邪悪と虚偽はセット

そもそも「悪」とは、宗教思想の概念で、心理学などの科学的な実態はまだない。しかし著者は、心理学的なデータや研究、アプローチの必要性を唱える。

著者の考える「邪悪」とは、サイコパス、ソシオパスなどと呼ばれる心理ではない。それらはどちらかというと無邪気だ、と言う。

邪悪の正体は隠れていて見えない。神戸のいじめは事件になったけれど、立件できないような陰湿な様相で存在するというのだ。

「真に邪悪な人間とはごくありふれた人間であり、通常は、表面的に観察するかぎりでは普通の人間のように見える」

「毒親」という言葉から始まり、「セクハラ」「パワハラ」「モンスターカスタマー」など、今社会にはハラスメントに関する情報や問題が溢れている。それは邪悪な人々の存在に対する拒否反応が顕著になってきた、ということだろうか。

「邪悪」な人々とはどんな人々なのか。

一見ごく普通の人々で、意志が強く、体面を重んじ、世間体を保つために人一倍努力し、善人だと思われることを強く望むが、

愛情や思いやりにかけ、共感力がなく、自分第一のナルシストで、自分に欠点があるとは思っていない。相手の気持ちを推し量ることが出来ず、それでまずい事になると、他人をスケープゴートにして責任を転嫁し、罪悪感や自責の念に耐えることを絶対に拒否する。

どんな人にも当てはまりそうな欠点ではあるが、邪悪な人々はそれがもの凄く極端である、ということらしい。

そして特筆すべき一番の特徴は、罪悪感や自責の念から逃れるため、他人をスケープゴートにして責任を回避し、巧みにウソをつく、ということだ。「邪悪」と「虚偽」はセットなのである。

多分そういう人は言い逃れもうまい。

「誤解ではないか」「あなたのためだと思って」「可愛がっていた」など、一見思いやりがあるように見えるが、実はこの言葉には、責任を相手にすり替える巧みなからくりが潜んでいる。とくに、「誤解です」という言葉は都合がいい。要するに、「あなたの考えが誤っているのでは」とやんわり宣告しているのである。


2.邪悪の犠牲者

①デリカシーのなさ

著書では、邪悪な両親に育てられた二人の男の子の例、邪悪な妻のもとでうつ状態にある夫の例、施療者を支配しようとする邪悪な女性患者、など挙げられている。

特に両親が邪悪な場合の子ども達は悲惨だ。

身体的に虐待している、というのでなない。それなら第三者が(一応は)介入できるのだが、人権に対する無知とか、相手の気持ちがまるっきり分からないので、子どもに恐ろしい精神的苦痛を与えている。

兄が拳銃自殺し、その拳銃をクリスマスプレゼントとして与えられて、抑うつ状態になってしまった男の子がいた。男の子は、伯母さんの家で暮らしたい、と希望を持っていた。

彼の両親は、その拳銃を与えることで、息子がどんな気持ちになるのか、全く考えておらず、その気持ちを推し量る想像力にまるきり欠けていた。兄を殺した凶器をプレゼントした恐るべき理由は、もったいないから、というものだった。

恐るべきデリカシーの欠如である。

真の患者は、男の子の障害の元になった両親である。しかし彼らは治療を徹底的に拒むだろう、と書かれている。

彼らは、男の子の兄の自殺に対して自責の念を見せる素振りすら見せていなかった。両親のプレゼントや、男の子に対する処置はうかつで、配慮に欠けている、と指摘されると、いろいろな理由をこねて喧嘩腰に反論してくる。男の子が親戚の家に身を寄せるというのは、自分達の親としての能力を非難されるという意味で禁忌だった。自分達に落ち度があるなどと認めることは絶対なかった。

真面目で勤勉な労働者であることが誇りの彼らは、自分達は完璧で、想像力も愛情も欠如しているために子どもが不幸になった、とは、みじんも考えていないのだった。

幸運なことにこの男の子のケースは、親戚に引き取られ、そこでの治療がうまくいったようである。

しかしもう一人の男の子は、同じような状態であったにも関わらず、医師や患者である子どもの意見はまったく取り入れられず、診察も一方的に打ち切られ、兵学校の寄宿舎に入れられてしまった。子どもを愛しているふりをしながらも、自分達に都合のいいように医師や教師の発言を巧みに利用し、自分達の安全を守るために子どもを犠牲にしたのだ。

②デリカシーに踏み込む

兄を殺した銃を弟にプレゼントしてしまうという、恐るべき配慮のなさには驚かされるが、邪悪な人たちは常に自分の身近に自分のコピーのような人物、イエスマンを置きたがるものらしい。

そして、その人物が自分の個性、独自の判断、感情などを持とうものなら、巧みに相手を惑わせ、相手に罪悪感を持たせるやり方で、イエスマンであり続けるよう求める支配者となる。

被支配者は当然自分より立場の弱いもので、孤独で自分自身の内省を何より恐れる邪悪な人々にとって、そうした不安や欲求不満のはけ口となるのではないか。

当然デリカシーなど飛び越えてくるだろう。

そして、自分の非を責められると、わずかな言葉で巧みに、それを目の前の相手や他人のせいにしてしまえるのだ。

精神医学は、私が邪悪性と呼ぶものを包括する、これまでとは違った新しいタイプの人格障害を認識すべきときが来ていると私は考える。自己の責任の放棄はあらゆる人格障害の特徴となっているものであるが、これに加えて、邪悪性は特に次のような特性によって識別できる。

(a)定常的な破壊的、責任転嫁的行動。ただしこれは、多くの場合、きわめて穏便な形を取る。

(b)通常は表面に現れないが、批判その他の形で加えられる自己愛の損傷に対して過剰な拒否反応を示す

(c)立派な体面や自己像に強い関心を抱く。これはライフスタイルの安定に貢献しているものであるが、一方でこれが、憎しみの感情あるいは執念深い報復的動機を隠す見せかけにも貢献している

作者はこう述べて、邪悪性に正しい名称をつけ、その犠牲者の治療に役立てるべきだ、としている。邪悪性の犠牲となっている人たちに、自分を苦しめるものの正体を知るように助けることが重要だ、と説いている。


3.集団の悪

邪悪な人間は、自責の念——つまり、自分の罪、不当性、欠陥に対する苦痛を伴った認識――に苦しむことを拒否し、投影や罪の転嫁によって自分の苦痛を他人に負わせる。自分自身が苦しむ代わりに、他人を苦しめるのである。

彼らは苦痛を引き起こす。邪悪な人間は、自分の支配下にある人間に対して、病める社会の縮図を与えている。

邪悪な人たちの苦痛がどういうものなのか誰にも知ることは出来ない。邪悪な人たちがひどく苦しんでいるように「見受けられない」のは事実である。自分自身の弱さや欠陥を認めることのできない彼らは、外見を装わなくてはならないからである。

彼らが有能なように見えるのは、単なる外見、見せかけに過ぎない。彼らは、自分自身を支配しているわけでもない。彼らを支配しているのは、健全性、完全性という外見を維持するように絶えず彼らをむち打っている、口やかましいナルシシズムである。

邪悪な人たちは、自分自身の内面の空虚さ、孤独感、自分の内面を見つめなければならない場合の恐怖などに常に苛まれているらしい。

著者が「男の冷静さ」と呼ぶ、自信に満ちた態度を身に着けていながら、強迫神経症に取りつかれるという、矛盾した面をもつ男性患者は、夕方になると、もの悲しさと不安の入り混じった奇妙な感覚に襲われていた。彼は夕暮れ時が大嫌いだった。

その苦しみから逃れるため、自分より弱い人を支配下におき、コントロールし、力を感じていたい、という心理があるらしい。自分の代わりに苦しんでくれる被支配者を求めているのだ。


この本の後半は、「個人の悪と集団の悪」がテーマとなる。

人間は、長期間のストレスに晒されると幼児化し、退行するという。

同じように、集団環境の中においても退行を見せるのだそうだ。リーダーシップを取れる人間について行けばよいからである。追随者はリーダーに子どものように心理的に依存する。

なんとかチルドレンとはよく言ったものである。

そして、個人の集まりである集団が、「集団ナルシシズム」として凝集し、「集団のプライド」として表出される。グループの構成員はその集団の一員であることに誇りを感じる。外に敵を作れば、その集団の結束はますます強固なものになる。

この本によく出てくる邪悪な人物の典型にヒットラーがいる。ヒットラーは今まで述べてきた特徴にぴったり当てはまるように思う。

そして、邪悪な人物が権力を持った場合どうなるか、というのは、周知の事実である。ヒットラーの心の空白や苦痛を埋めるために、どれ程の犠牲が必要だったことだろう。その悲惨さは言わずもがなである。彼はリーダーの地位をもの凄く欲していて、そして彼は邪悪で、人心のコントロールに長け、自分の苦しみを代わりに味わってくれる被支配者や犠牲となる民を探していた、ということなのだろうか。

邪悪なリーダーに幼児のように依存していると、それに属する個人も邪悪に染まってしまうのだろうか。

われわれは誰しも、邪悪に向かって滑り落ちる、一線を超える危険性がある、ということだろうか。そして、邪悪な集団の一構成員として、邪悪な役割を果たすのだろうか。

その可能性は大いにあり得る。

われわれは組織の時代に生きている。

組織や企業はますます大きなものになっている。集団の中では責任は分散され、大規模集団の中では責任は事実上消滅してしまうこともある。大企業の場合を取り上げてみると、社長や取締役会会長ですらこう語ることがある。

「私の行動は全面的に倫理にかなったものとは言えないかもしれない。しかし、結局のところ、私の行動は私自身の権能によるものではない。株主のためを考えれば、利潤動機によって動かざるを得ない」

このように、組織というものは、その規模が大きくなればなるほど顔のないもの、魂のないものとなる。魂がなければどういうことになるだろうか。単にからっぽというだけのことだろうか。それとも、かつて魂が占めていた空席に悪魔が入り込むのだろうか。

この一文は、かんぽ生命の不正事件や、厚労省を始めとする様々な組織のデータ改ざん問題を思い出す。

そして、流行語になった「忖度」という言葉が思い浮かんでくる。正式な文書の通達なしには動かないお役人が、リスクを負ってまで忖度したという、そのパワーの源は一体何なのだろうか。


4.自己浄化

運悪く邪悪な人に出会ってしまったら、どうすればいいのか…それが一番悩ましいところである。精神に破綻をきたすような体験をされた方は、おそらくたくさんいるだろう。

邪悪な人に数多く向き合った作者は、凄いと思う。そういう人に出会って感じるのはまず「混乱」、そして「嫌悪感」だそうである。

嫌悪感と言うのは、おぞましいものを避け、それから逃げ出したいという気持ちを即時に起こさせる強烈な感情である。そしてこれは、邪悪なものに相対したときに、健全な人間が通常の行動を起こすための、つまり、それから逃げるための、最も有効な判断手段である。

邪悪なものは、長期にわたってその影響下に置かれている人間を汚染し、または破壊させるものである。邪悪なものに出会った時に取るべき最良の道は、それを避けることである。

やはり逃げたり避けたりするのが賢明なのだが、そうはいかない場合も多い。邪悪な人は他人をコントロールし、自分の支配下に置きたいからで、付き合うのも逃げるのも大変困難である。

邪悪な人たちは、それぞれ魂には境界があること、そこに踏み込んではいけないことを知らない。他人の魂を尊重することを知らない人たちである。そして、彼らに自分の問題を自覚させようとしても無駄である。

ある人に混乱し、嫌悪感を感じたら、なるべく避けるしかない。避けられない場合は、「この人は邪悪な人で、私をコントロールしようとしている」「そして、自分自身の問題を私に押し付けて解決しようとしている」と自覚し、悪いのは自分ではなく相手だ、と肝に銘じた方がいい。傷つけられないように心をガードし、当たり障りなく必要最低限に接し、時にはどんなリスクを背負ってでも、嫌だというより他はないかもしれない。あらゆる手段を講じて逃げた方がいい。

自分自身を照らし出す光や自身の良心の声から永久に逃れ続けようとするこの種の人間は、人間の中で最も怯えている人間である。彼らは、真の恐怖の中に人生を送っている。

邪悪な人を恐れるな、とは言えないが、彼らは精神の奥の奥で、ワタシ達以上に大きな恐怖を内包している人たちなのである。それを忘れずにいると、少しは役に立つかもしれない。

そして、邪悪な人間にはなりたくないと思う。邪悪な人間になるのなら、欠点だらけでどうしようもない人間であった方がマシだ。

「男はつらいよ」の寅さんが愛される理由が、ここに至ってようやく理解できる気がする。

もういい人を装うのは止めよう、という気持ちにもなる。誰かに責められても、欠点だらけの自分を認めて謝った方がいい。自分にも他人にも、なるべく正直でありたい。それにリスクが伴っても、その方がいい。

自分自身であり続けるために、どういう犠牲を払うのか、そしてどんな責任を負うのか。それが怖くもあるが、邪悪な人になって自分の苦しみを他人に押し付けるなんて、そっちの方が恐ろしい。

彼らのようになってはいけない。時々自分を省みて、怠惰とナルシシズムを一掃し、自分を浄化しなければならない。そうして邪悪を寄せ付けないようにしなければならない。

自己防衛、自己浄化は、邪悪な人たちからの正当防衛と言える。個人に許された権利であり、そして課せられた義務でもある。大いばりで権利を謳歌し、勇気を持って義務を果たさねばならない。

戦争を含めて集団の悪を防止する活動は個人に向けられるべきものである。言うまでもなく、これは教育の問題である。

集団の中の個人は自分の倫理的判断力を指導者に奪われがちになるが、我々はこうしたことに抵抗しなければならない、ということを子どもたちに教えるべきである。自分に怠惰なところはないか、ナルシシズムはないかと絶えず自省し、それによって自己浄化を行うことが人間一人ひとりの責任であるということを、子ども達が最終的に学ぶようにするべきである。この個人の浄化は、個々の人間の魂の救済のために必要なだけでなく、世界の救済にも必要なものである。


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