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静かな池、参禅。

わたしは自分の心を水にたとえるとわかりやすいと思ってます。四六時中さまざまな思いが渦巻いて濁るのですが、池のようにどっしりと構えていると少しずつ 少しずつ澄んでまいります。そして池の底に棲んでいる井守の姿が鮮明にみえてくるのです。

一人で坐禅することを「独坐」といいますが、これはなかなか続きません。じぶんの経験上はそうです。正直ひとに見られていると思うとまじめに坐れます。周りにひとが居るほうが自分で自分をみれます。参禅は師に問う意味などもありますが「共に坐る」といったほうがしっくりきます。

かんたんなことを難しくいうことは簡単ですが、難しいことを簡単に話すことはたいへんむずかしい。参禅についてもそうでして、じぶんでは上手く書けませんので、永平寺を開かれた道元禅師の言葉を借りて、以下に現代訳してみようとおもいます。よけい分かりにくいかもしれませんが^^

▶参禅とは坐禅のことです。静かなところがいいです。座布団を敷きます。
雨風をしのぎ、許された場所で坐りましょう。むかし岩や石の上で坐った祖師の話がありますが、先輩方はみんな厚く草を敷いて坐っていました。

坐る場所を決めます。昼夜暗くなく、冬は暖かく夏は涼しい環境を整えます。あらゆる考え事や全ての思いを放ちましょう。善悪を思わず、心・意・識や念・想・観にとらわれず、悟りを得ようとしないことです。

寝食をわすれ、飲食を節制し、時間を惜しみ、頭についた火を払うようにして、坐禅に打ち込みます。祖師方もみんなそうでした。務めはただ坐禅のみだったのです。

坐禅のときにはお袈裟を掛けます。座布団の上に坐蒲をおきます。坐蒲をお尻の後ろの方に敷いて、両膝が座布団に付くように、背骨の真下に坐蒲がくるようにします。これは仏祖の坐法です。

足の組み方は半跏趺坐か結跏趺坐です。結跏趺坐は、右足を左の腿の上におき、左足を右の腿の上におきます。両足の先はそれぞれ両腿にそろえ、不揃いにならないようにしましょう。

半跏趺坐は左足を右の腿にのせるだけです。ゆったりとした衣服できちんと整え、右手を組んだ左足の上におき、左手を右手の上に重ねます。両親指の先を合わせ、両手を身体に近づけ合わせた親指の先をお臍のまえにおきます。

からだを真っ直ぐにして坐ります。前後左右に傾むかないように、耳と肩を相対し、鼻と臍が相対するよう垂直に腰を立てます。舌は上顎につけ、息はかすかに鼻で呼吸します。口を閉じ、目を開きます。眼を見張ることなく細めることなく。以上のように身心を整えて、一回大きく口で息を吐きます。

左右に振り子のように体を揺らし芯を定めたら、宇宙のど真ん中に堂々と、どっかりと坐ります。このとき「何も考えない」のです。どのように何も考えないかは「非思量」です。何か思ったらすぐに払う。これは坐禅の肝要な技術です。坐禅は練習ではありません。大安楽ぶっちぎりの本番です。何にも汚染されない修行と証悟は一つという大姿勢であります。◀

以下に坐禅儀の原文を引用します。

参禅は坐禅なり。坐禅は静処よろし、坐蓐あつくしくべし。
風煙をいらしむることなかれ、 雨露をもらしむることなかれ、容身の地を護持すべし、かつて金剛のうえに坐し、盤石のうえに坐する蹤跡あり、かれらみな、草をあつくしきて坐せしなり。

坐処あきらかなるべし、昼夜くらからされ。冬暖夏涼をその術とせり。
諸縁を放捨し、万事を休息すべし。 善也不思量、 悪也不思量なり、心意識にあらず、念想観にあらず、作佛を図することなかれ。

坐臥を脱落すべし、飲食を節量すべし、光陰を護惜すべし、頭然をはらうがごとく坐禅をこのむべし、黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし、唯務坐禅のみなり。

坐禅のとき、袈裟をかくべし、蒲団をしくべし。蒲団は、全跏にしくにはあらず、 跏趺のなかばよりはうしろにしくなり。 しかあれば、累足のしたは坐蓐にあたれり、背骨のしたは蒲団にてあるなり、これ佛佛祖祖の坐禅のとき坐する法なり。

あるいは半跏趺坐し、あるいは結跏趺坐す、結跏趺坐は、みぎのあしを、ひだりのもものうえにおく、ひだりのあしを、みぎのもものうえにおく。あしのさき、おのおの、ももとひとしくすべし、参差なることをえざれ。

半跏趺坐は、ただひだりのあしを、みきのもものうえにおくのみなり。 衣杉を寛繋して、斉整ならしむべし。右手を、左足のうえにおく、左手を、右手のうえにおく。ふたつのおおゆびさき、あいさそう。 両手かくのごとくして、身にちかづけておくなり。ふたつのおおゆびの、さしあわせたるさきを、ほぞに対しておくべし。

正身端坐すべし。ひだりへそばだち、みぎへかたぶき、まえにくぐまり、うしろへあふのくことなかれ。かならず耳と肩と対し、鼻と臍と対すべし。舌はかみの顎にかくべし。息は鼻より通ずべし。
唇歯あいつくべし。 目は開すべし。 不張不微なるべし。かくのごとく身心をととのえて、欠気一息あるべし。

兀兀と坐定して、 思量箇不思量底なり。 不思量底如何思量、これ非思量なり。これすなわち坐禅の法術なり。 坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり。

正法眼蔵坐禅儀

下手くそな現代訳ですみませんが、自分なりに一所懸命かきました。
池の水面のように、どっかり腰をおろして水平になればいいのです。
自分が水のように、だまって真っ直ぐ、ただひたすら坐るだけです。
参禅堂で、いっしょに坐りませんか?

坐ればわかる、わかると坐る。

ここまでご覧いただき厚く御礼申し上げます。合掌🙏


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