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団鬼六が吉野家コピペを生んだ? ~思考と静謐~


珠玉のエッセイ

団鬼六先生のエッセイ集「死んでたまるか」は、個人的にエッセイのオールタイムベストに入る名作で、是非多くの人に読んでいただきたい。

その中で、ちょっと気になる内容があったので、長いけど引用してしまう。15章「牛丼屋にて」で団先生は、吉野家では酒を3本しか頼めないので、飲み過ぎる事がないのがいいと述べる。そしてその後に、次の文章が続く。

吉野家が気に入っているもう一つの理由は、ここでは誰にも邪魔されることなく考え事が出来る事にある。(中略)ここは、大衆食堂であるから上司が部下を連れて来て、あーこりゃ、こりゃの宴会はないし、大衆酒場のような喧騒もない。メシは静かに喰うべきもの、といった風な静寂が垂れこめているのにも価値があるのだ。

死んでたまるか ――団鬼六自伝エッセイ (ちくま文庫 た-99-1)
第15話 牛丼屋にて 六十二歳(平成五年/1993年)

吉野家ってのはな…

何かに似ていると思わないだろうか…?僕くらいの年代だと、真っ先に「吉野家コピペ」と呼ばれるインターネットミームとの類似性に気づく。

特に、コピペ前半の「吉野家ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ」以下の大意は、団先生の文章とよく似ているように思う。

もっとも、団先生は「その雰囲気が好き」、コピペは「(その雰囲気が好きなので)そうあるべき」という事を言っているので、ここでもう人間としての器の違いが見て取れるのだけれども。

あるいは、孤独のグルメの井之頭五郎のセリフ「モノを食べる時はね 誰にも邪魔されず 自由でなんというか 救われてなきゃあ ダメなんだ 独りで静かで 豊かで……」を思い出す人もいるかもしれない。これも、静かにメシを食うことの価値を述べている。

一応誤解のないように述べておくと、団先生は同エッセイ集でも銀座で飲み食いし、命を賭して有毒フグの肝を食べ、相撲取りにうな重大盛りをごちそうする様子を描いており、吉野家「だけ」しか知らないような方ではない。そして、夜中の遅い時間にやってきたワケあり風の家族に、出版社からもらったクッキーをそっくり譲る、という事もやっている。「女子どもはすっこんでろ」なんて野暮な事は言わないのだ。

そして、団先生がこの文を発表したのが平成五年(1993年)。Windows 95もまだ発売されていないわけで、インターネットはまだ普及していない。当然、2ちゃんねるやブログもまだ誕生していないころ、団先生はこの吉野家についての文章をかいたのだ。

団先生のエッセイが吉野家コピペに与えた影響は、正直分からない。でも、1993年当時から、吉野家は静かで、どこか殺伐としているという事実ないし共通認識はあったといえる。

天才は似るもの?

そして、僕が団先生の文章を読んでもう一つ思い出したのが別方向の天才、ノーベル物理学賞を受賞したリチャード・ファインマン。

彼は、カリフォルニア工科大学に移った後、よくストリップバーで理論物理学の問題を考えていたという。もちろん、女性ダンサーを眺めるのも好きだった。

団鬼六先生とファインマンさんに通じるのは、一見考えるのに不向きな不特定多数の人間がいる空間があって、その空間が逆に考えるのに必要な静謐さを作り出している、という面白い現象だ。

それは必ず時も物理的な音量のことだけじゃなくて、適度な環境音があるということと、他人が割り込んでくる可能性が極めて低い、という両面がある。考えるということは、一人の人間の中で閉じている作業のように思えるのだけど、実際は周りの環境に影響される部分が大きい。

そして、そうは言いつつ、団先生は吉野家という「日常の環境でエロいこと」を考えていて、ファインマンさんはストリップバーという「エロい環境で(ファインマンさんにとっては)日常のこと」を考えていた。

こんな対比もあって、思考もそれに必要な静謐さも、人によってずいぶんちがうのだな…という当たり前の事を、改めて感じたりする。

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