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恋々流れて

 恋について、この前書いてから色々スッキリしたことで興味のあり方が変わり、正直この御代のかわりと共に心機一転である。
 が、どうしたものやらこの期に及んで身辺は漫ろになり、私はすっきりしているけれども、世は濁流のごとくになっているのだなぁとまざまざと見せつけられる。苦しいだろうなと見ていて思う。それがよいと言いつつ自らの思いにならぬ思いに翻弄されているのだ。
 想念はそうと頭に浮かべ心に気がついた時から始まるが、気がつくというのは恐ろしい事なのだ。そして気がつかせるというのが恋愛のテクニックなのだと新しくわかったことがあった。思いを留めさせるのは武術と通じるものがあって留めさせたら、後は詰めていけばよいのだろう。他者へのコントロールの術である。問題はこの力はかなり大きくて自らの内にある場合はコントロールが効きにくいのだ。船を浮かべる水は船を沈めもする。他者の堤は作れても自らの堤は築きにくいのだ。
 私は心の遊水地を作って遊ばせて、ウエットなのに豊かな世界を目指したいけれど、そういう風に思わない人も入るのである。
 恋情に振り回されて、顔が青くなったり赤くなったり息も絶え絶えで苦しんでいる、その苦しみのなかにいる人は苦しみにさえ本質的には気がついていないのかもしれない。
 世界はこんなに広く美しいのに、我々にとっては空は狭くあるのである。この広い世界を知ってしまって、どうしてそこに戻れようか?
 切々として胸を裂くそれに気は着くけども、ひたひたとして寄せるその波にも私は身を染めず、この海原の先に漕ぎ出したいのだ。
 五月の広い空はよりそう思わせてくれるし、私の心に形がなければこの広がっていく空のようにただ大きくも小さくもあり、それでいて私のままになるのだ。大河の流れも鳥は羽打ち一つで抜け出すように、一つの気づきがすべてを変えるよしでるなぁ

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