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「何もしない」で見つけた楽しみ

例えば丸一日をかけて全く何もしないということは可能でしょうか。

「何かをする」の定義にもよると思いますが、呼吸や水分補給など生理的に必要なことはカウントしないとしても、身動きせずに部屋の天井あたりを見つめて過ごす一日というのは、物凄く長く感じることかと思います。

その昔、胃がんの手術をし終えた後に、まさにその様な一日を集中治療室で過ごした経験があります。

動かすのは右手の親指だけで、ナースコールがテープで巻きつけられていました。右手の親指を動かすだけで看護師を呼ぶことができて、水差しから水分補給をしてもらったり、痛み止めを注射してもらったりできるのです。

しかし、それ以外にはできることが何もありません。

痛みや苦しみがひどいものだったので、それを耐えるということが優先事項だったのですが、何せ親指を動かす以外にやることがなく、その苦しい時間をどう過ごせばいいのかわからず、その一日は本当に長く感じてしまった記憶が残っています。

このくらい極端な状況に陥ると、限られた環境の中でその時間をどう過ごすべきか、自然と考えるようになります。何もできないくせに何かをしようと工夫を凝らしてしまうのです。

まず始めたのは、記憶に頼って音楽を脳内再生することでした。当時はバンド活動もしていたこともあり、自分が弾くことができる曲などはより鮮明なイメージで脳内再生することができます。

好きなアルバムやライブの曲目リストを一曲目から脳内再生して、頭のなかだけで自分自身を盛り上げる工夫を凝らしてその一日を過ごします。

しかし、ひとつのアルバムの収録時間はせいぜい一時間前後で、ライブも長くて二時間程度です。集中治療室で何もせずに過ごすのは1日~3日が予定されていたので、これだけではとても耐えることができません。

その次に始めたのは、同じ部屋に入っていた別の患者と看護師のやり取りを聞いて楽しむというものです。

その患者は40代くらいの男性で、聞こえてくる会話から想像するに僕と同じ手術を同じ時間にしているようでした。

しかし、僕に比べて痛みや苦しさを感じていないようで、看護師にはたくさん話し掛け、漫画を読んだりしてその時間を過ごしています。確か『Rookies』を読んでいた気がします。

この余裕な様子を不思議に思い、看護師に「なぜあの人に比べて僕はこんなに痛みを感じるのでしょうか」と質問した記憶があります。どうやら若いと筋肉が敏感なようで、回復は早いがそれに伴う痛みは強いのだそうです。

この隣人との比較は「何もしない」一日のなかでは、退屈を凌げる大きなイベントであり、充実した時間を過ごすことに繋がりました。

元気な時にわざわざこんな事をしようとは思わないでしょう。普通に音楽を聞けば良いし、隣のおじさんと自分を比べることもありせん。

しかし制限のある環境ではこういった小さな出来事ひとつひとつが大きな力となり、10年以上経った今でも記憶に残っているほど印象的な思い出です。

エンターテイメントが豊富な現代において、見逃している小さな楽しみが、もしかしたら他にも何かあるのかもしれません。

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