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【434球目】三陽工業・動乱期⑥

2008年から2010年を動乱期と位置付けています。

2008年に起きたリーマンショック。もう14年が経つんですね。今年の新卒はまだ小学生の時です。リーマンショックとは、2008年に米国の投資銀行大手リーマン・ブラザーズが負債総額6000億ドル超となる史上最大級の規模で倒産したことを契機として発生した世界的な金融・経済危機のことです。野村證券さんのHPからお借りしました。色々と思い出して来ます。


2008年9月15日

この日にリーマン・ブラザースは破綻しました。

2008年10月1日からは川崎重工の明石工場でエンジン組立と研磨の構内請負職場が始まる為に、日々忙しくしていました。リーマン・ブラザーズの破綻直後は、日本には直接的な影響は軽微である、そんな報道もなされていました。しかしながら、蓋を開けると軽微どころかとてつもなく影響がありました。この2008年の年末には派遣切り・派遣村こんな言葉がメディアを賑わしていました。契約が2008年12月末や2009年1月末までなのにそれ以前に契約解消される派遣切り。そして、契約解消なので社宅を追い出されていくとこがなく、東京の日比谷公園にそういう人が集まって出来た派遣村。全国的にそんな動きが広まっていましたからこの明石も例外ではありませんでした。

仕事がない。当時、3月末という期限で仕事をしてくれていた人が数多くいたのですが、そこまで仕事がない。3月末を待たずして契約解消になるいわゆる派遣切りはありませんでしたが、1-2ヶ月を改善活動や清掃活動に充てるしかない状態でした。当時、休業という選択肢は取らずに意思があれば出勤は可能だった状況には感謝です。


2009年3月末

三陽工業においてもこの2009年3月末にて多くの契約を終了することになりました。

リーマンショックにとって物が売れずにメーカーは仕事がない状態ですから仕方ありません。多くの人が三陽工業を去ることになりました。去りたくない人も去らないといけない状況になっていました。契約満了で去る人もいれば、会社都合で去る人もいました。担当ではなかった人も含めて全て面談には同席をしました。泣いてしまう人、怒鳴る人、事情を分かってくれる人、様々な反応がありましたが、仕事がない状況でしたので、こちらからはお願いをするしかありませんでした。約300名いた社員が118名へと減りました。現在の明石支店よりも随分と少ない人数です。今、振り返ると、もっと色んな対応が出来たと思っています。ただ、その当時は逃げないことしか出来なかった。あまりにも無力でした。

そんなどん底の状況の中で明るい材料だったのは、2008年10月からスタートしていた川崎重工明石工場の組立とバフ研磨の構内請負職場。派遣契約ではありませんので、数量は落ちましたが、0にはなりませんでした。そして、2009年4月にはもう1つのバフ研磨職場の請負が開始されました。リーマンショックの影響が大きかったので4月に予定されていた請負開始予定の職場は次々と開始ストップとなっていましたが、研磨職場のみ三陽工業にてスタートさせることが出来ました。理由は三陽工業でないと研磨が出来ないからです。

もうひとつ精神的に大きかったのが高砂事業所の存在です。高砂事業所では発電用ガスタービンのブレードを扱っています。発電用ですから受注から製造、据え付けまでのリードタイムがとても長いのと、発電というインフラを担っていますので、当時はリーマンショックの影響をすぐには受けませんでした。高砂事業所だけが忙しい状況、それが精神的にとても助かりました。コロナ禍においては飲食業が大打撃を受けましたが、リーマンショックの影響は製造業においてとても大きく、悲しい話もいくつかありました。高砂事業所では明るい話をして、明石に帰ると暗い話になる。それを繰り返していましたね。

当時を思い出しながら、書いています。14年ほど前の話ですが、色んなことを思い出します。明日はもう少しリーマンショックのお話を続けます。

本日もありがとうございました。

明日もよろしくお願いします。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました!