【3球目】佐賀→名古屋→山梨→明石
桃鉄みたい。
コロナ禍で桃鉄100年チャレンジを始めましたが、最近できてないなぁ。
佐賀から名古屋へ
後ろ髪を引かれながら佐賀を去ったあと、職を変えて名古屋にいきます。
その前に2ヶ月間、三陽工業でアルバイトしていました。
当時の伊川谷工場(現森友工場)で期間限定の剥離作業があったので、それをメインに。あとは研磨を少しだけ。
その時の伊川谷工場は夜勤も行っており、その時の夜勤責任者が、現工場長の山口さん。当時は副工場長でしたね。
私より先輩社員です。感謝です。
2ヶ月、規則正しい生活をしたのちに名古屋へ行きます。
最初は、熱田区沢上という所に住んでいました。
会社まで徒歩5分ほどです。
高校~大学まで徒歩通学だったと前に書きましたが、1社目の会社も2社目の会社も、これまた徒歩圏内。
その環境に感謝です。今はちなみに車通勤。
名古屋では三陽工業との類似業種の会社に入社しました。
以前の会社では『数字が人格だ』という意識を植え付けられ、しかもその環境の中で全国200店、3,000人くらいの営業社員がいる中で全国2位の成績を残したことのあった私は、天狗です。
25才。
きっと人生で一番調子乗っていた気がします。
そんな若造が、入社手続きで会社に行った時のこと。
直属の上司になる人が手続きを行ってくれて、最後エレベーター前まで送ってくれました。
元気な声で
『ありがとうございました!』と、一礼して頭を上げると、
『来週よりお待ちしております!』とその人。
エレベーターの扉が閉まるまで、頭を下げているではありませんか!?
その瞬間、天狗だった自分がすごく恥ずかしくなりました。
「数字やればいいんだろ」みたいな感覚を持っていた自分が恥ずかしくて反省しました。
とはいえ、2年間限定のため実績を上げなければいけないという強い想いを持っていました。
当時、その会社は拠点での営業力が不足しているということで、私が配属されたのは本社・営業本部。名古屋の本社所属ではありますが、基本はどこかの営業所へ行っての営業支援です。
そして、担当になった営業所が山梨県の甲府営業所。
25才の私は初めて、名古屋から中央道を走り甲府営業所へ向かいます。
甲府に着くと、甲府営業所長へご挨拶。
オールバックで目つきの鋭い所長が、そこにはいました。
今はこの人、三陽工業の神戸リクルートセンターで勤務してくれています。
そう、前の会社では様々な人との出会いを頂きました。
1球目に登場したTikTokで華麗なダンスを踊ってくれている取締役とか、お酒が飲めないのに一番酔っぱらっている様に見える室長とか、琵琶湖の近くの営業所長とか。
色んな縁を頂きました。
名古屋へ行って良かったです。ほとんど甲府にいましたけど。
当時、三陽工業の売上高は12億ほど。
この会社の売上高は、私がいた時で200億手前までいきました。
その差は15倍以上。
現状ではまだ少し、売上は負けていますが、どこかで追い抜こう。
それが、この会社でお世話になったことへの恩返しだと思っています。
甲府営業所では様々な業務を経験させて頂きました。
新規営業支援へ行ったはずなので、管理・採用・請求に給与。全ての営業所業務を経験させていただいて、その環境には感謝しかありません。
当時の営業所のメンバーは、今でもたまに連絡を取り合います。20名ほどの営業所がドンドン大きくなっていく様は、とても嬉しかったですね。
名古屋は2年間でしたので、本当にあっという間に過ぎました。
数字が人格だと思っていた若造が、2年間という短い間ではありましたが、様々な角度から物事を見ることを学びました。
そして、もちろん経営者としては当たり前に数字がついて回ることも。
実は裏口入社
この会社に入ったきっかけは、裏口入社です。
私の父親と、この会社の役員が懇意にしていたので、入社に至りました。
昔の私なら嫌がっていたと思います。
ただ、同じ事業をやっている部分もあり、三陽工業に入る前に業界の事を知っておくのは得策だと思いましたし、最終明石に戻る訳ですから、違う土地に行くのも面白いかなと。
ただ、裏口入社の身である以上、プレッシャーはありましたね。
実績を成果を出さないといけない。
ここは『社長の息子』と言われる圧とよく似ています。
通常、新入社員は0からのスタートです。
しかし、こういった裏口入社や社長の息子として親の会社に入る時は0からのスタートではなく、マイナスからのスタートになります。
だからこそ、周りを納得させるだけのものが欲しい。
一番手っ取り早いのが目に見える成果=数字でした。
甲府営業所へ行った時。必死でしたね。
成果を出すためには営業の量が必要だった時代です。
(今も量は必要ですが。それ以外の要素も多分に必要です)
ひたすら新規営業に没頭していました。
そうすると、1社また1社と新規顧客が取れてきます。
その中で、大きな顧客に出会いました。
数十名規模になる企業との取引が開始されました。
この時、強く想ったことがあります。
今、この顧客が立ち上がっている際に、次の新しいお客様を探す必要がある。新規顧客に対して前のめりになっている今こそが、次の顧客を求める最高のタイミングである。
『営業無くして繁栄無し』
印象に残っている言葉です。
営業以外にも大切な業務は多々ありますが、この言葉は本質を突いています。そして、どんな仕事も突き詰めていけば営業の要素が必要になってきますよね。
そんなことを、この裏口入社の会社で学ばせて頂きました。
途中で、関西生産性本部に行かせて頂いたことも、良い思い出です。
名古屋から明石へ
2年の武者修行を経て、明石に戻る時がきました。
7年いた佐賀を出る時と、随分気持ちが違いました。
当然です。
とうとう、明石へ戻ると三陽工業に入社するんです。
私が2才の時からある会社。
祖父が創って祖父と父で発展させ、父親が守っているその会社に、3代目経営者候補である私が帰るのです。
後ろを向く暇なんかありません。
明石のことしか考えていません。
マイナスからのスタートですから、不安もあります。
27才の私にとっては、そのほとんどが年上であり、直属の上司になる人は、お客様である元川崎重工で訓練生から係長まで上がった叩き上げの人です。
不安と希望と言いたい所ですが、ほとんどが不安でしたね。
何かに例えて言うならば、強豪校相手に打席に立つ時、そんな感じでした。
そう考えると、打席に立ってしまえば開き直れる。そんな思いでしたね。
5年間の会社員生活は終わりました。
これからは経営者の卵として、そして、27年間で得た武器と、その中でも最大の武器である元気さを引っ提げて、明石の三陽工業に戻るべく名古屋を後にしました。
名古屋。
名古屋飯にはハマりました。
ココイチと一緒にある餡かけスパゲティ屋さん。
こっちにも出来んかなぁ。。。
では、この辺で。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!