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太平洋の30日 1980年

郷土の英雄大平正芳さんの訃報を、私は船に2日に1回送られてくる臭いFAX新聞の記事で知った。もしかしたら人生で一番幸せだったかもしれない30日間についての記憶。

梅雨にはいる頃の夕方、船橋港から私を乗せた海洋調査船「白嶺丸」は静かに出港した。1974年に就航した「白嶺丸」(1,821トン)は, 1974年~ 2000年の間,日本周辺および太平洋の海底鉱物資源を調査。日本周辺広域海底地質図の製作測量、南極周辺の海底油田の探索もした。

こんな船になぜ乗ったかと言うと、当時日本大学理工学部の大学院生だった私の研究は、海底油田掘削構造物に対する地震応答解析で、関係なくもない調査船の研究助手的なアルバイトの募集に雇われたから。3食付き1日1500円というもの。

私は船酔いについてあまり考えていなかった。橋のかかっていない頃の四国の出身だから船には良く乗っていたし、父がモーターボートを造る会社をやっていて(儲からず廃業) 乗る機会もあったので不安はなかった。が、出港して1時間も経つと太平洋の波に船は揺れだしあっという間に船酔い、瀬戸内海とは違う。いや、それ以前に船室に案内されたときから天井も床も斜めという部屋に平衡感覚が狂っていた、これは客船ではない。

大袈裟ではなく、海に飛び込もうかと考えてしまうほど気持ち悪くて、「こんなのが1ヶ月続くのなら死んだほうがましだ」と乗ったことを大いに後悔した。ところが3日目の朝、目が覚めたとき自分の異変に気が付いた。さわやかなのである、何故?。順応性というのか三半規管がバカになったのか、とにかく素晴らしい。以後どれほど揺れようが全く酔わなくなった。

私の仕事は、「よんぱー」と呼ばれる朝夕4時から8時までの2度の4時間勤務。その間、船の航跡図を速度と方向を調べながら描いていき、1日に2回衛星によって船の位置が正確に分かるので修正をするというもの。最先端の調査船でもこんな時代。海底の地形と鉱物を調査しているのだから位置は大切です。

船は小笠原諸島を中心に広く行ったり来たり決められたルートを進むので梅雨前線が停滞する季節だったこともあり良く揺れた。重い低重心の椅子が飛び、船の高い位置にあった作業室より波が上に来ても船の傾き許容範囲ギリギリまでルートを守っていた。夜荒れ狂う海はとても怖いものです。

「よんぱー」という時間の幸せは朝陽と夕陽がともに見られること。360度何も見えない船のデッキから毎日のように美しい景色を眺められた。あまり人と話をせず、ラジオも無く、音楽もあまり聴かず、テレビも当然見ない。世界がどうなっているかほとんどわからずに過ごす時間。濃紺の海を覗き込めば、5000mの深海に引きずり込まれそうな感覚や、美味しい食事の楽しみを覚えている。

情報がたくさんあっても、生活が便利になっても幸せではない、むしろ不孝かもしれない。なにかがどこかで犠牲になってる。その当時でもそう感じた。

無寄港の調査船には猛者もいて、研究員は東京大学の博士課程で地球物理を学んでいる賢い人が多かったが、航海中一度も風呂に入らずボサボサで臭い人が、船を降りる時別人のようにさっぱりとして出ていったこと、船には一人で女性の看護師さんが乗っていたのを最終日に始めて見て知ったことも。私は、45000円を貰って船を降りた。そして、現実にもどった。またこんな生活がしたいと願ったが、実現することはなかった。

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