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3月になりますが2月は怒っていた

こんちは。私こと佐貫です。ふだんはひらがなの人格として日記を書いているので漢字は慣れませんね。今回(今月)の写真はグーグルが「きれいに加工してやんよ!」というのでまかせたらやけに輝きを増しているそのへんの写真です。不自然な加工だなあ。さて私は現在まだ無職です。もちろんこの月一回更新では就職やバイトが決まれば必ずここに書くということでやっていますが決まらないものは仕方がない。

さて今回は「2月は1か月まるまる怒っていた」ような気がするのでそのことを書こうと思います。簡潔にいってはじめのほうは体調不良によるままならなさの怒り、終わりのほうは花粉症の症状激化による怒りです。その中間はよかったのかといえば良くもなくて、ただ、映画をたくさん見たという意味ではいい月でしたが、花粉症がひどすぎると自分のたてる音がうるさいので映画をみる意欲もうせてしまうんですよ。

映画は2月だけで8本みました(うち1本は気に入ったので2回みました)。私にしては頑張っています。ほとんどどれも最高に面白かったのでお金の使い方として大変よろしいです。たまたま気まぐれで時間が丁度よかったので見たやつとかが当たりだったりすると、とても気分がいいですね。巡り合いのギャンブルに勝った感じがします。「JULLAY 群青のラダック」という、インド最北部のラダック・ザンスカール地方のドキュメンタリー映画ですが。まあ、まさに、空の青さ、人の、ロバの在り方の様子、素晴らしい映画です。とてもここで感想をいいきれませんが、スマホはあるけどテレビ通話くらいしかしてない感じがとてもいいです。世界全体としてスマホの用途というのは、実際問題は「通信ツール」がメジャーであり、調べたり学問やったりするのはマイナーなようです。YOUTUBEを観るのは娯楽通信であって学問や調査ではない、と言っていいのかどうかは別として。

さて2月はじめは、1月末からなんとなく感冒に似た症状で調子がわるく、そのため不愉快な感じがしていました。これまで大病することなく過ごしてきたため、ちょっとした体調不良に対して受け止める力が弱いのです。それは事実そうなので仕方ありません。しかしまあ時間が経つと自然治癒にはもっていけました。

そしてそれがだいたい治ったかと思った直後から今年の花粉症の増悪です。鼻水からはじまり、目のかゆみ、そして本格的なくしゃみ攻撃。副鼻腔に充満した液体鼻水が、両方の鼻の穴をふさいでしまい、寝ようと思っても鼻呼吸できない症状。私は口呼吸のまま寝つくことができません。苦しい。どうすればいいのか。わからない。

まあいつのまにか疲れて寝てしまうのですが(その意味ではまだ軽症ではあります)。

そんなことに怒っているうちに2月は終わりを迎えてしまいました。早いものです。1月はたのしく北海道旅行などしていたのですが、えらい大きい違いだなと思いました。

結論からいえば2月いっぱい就職活動なにも進展なく無職を継続していますが、これがダメージかというとそんなこともなく、貯金は順調に減っていき、計画ペースにほぼ違わぬ減り方で、これなら心配いらないというところです。

怒りだけがエネルギーの元だみたいなところもあり、世間を見返してやるとか復讐してやるとか、非モテの恨みパワーを解放してやろうとか、いろいろ負のエネルギーをもって正の力でどうにかしようというやる気もないわけではないのだが、そういうところから生まれたものはどうも恨みがましさみたいなものを抱えていて、受け取る側も受け取りにくいのではないでしょうか。

そう思ったのでなるべくそういう風にならないようにこころがけていました。怒りを制御するというよりは、怒りは怒りであるけどそれはそれとして別のことに影響でたりしないようにしましょうということです。ほっとくとどこにでも怒りの影響は出てしまうので、注意しないといけません。

甘いものをたべたり(2月はすっかり2日に1回はミスドにいって324円分のドーナツを楽しんでいます)、甘さのあるコーヒーをのんだり、飲食で楽しむことでなんとかしたり、電気ストーブを押し入れから出してきて温まったりしています。

怒りは必ずある、自分についてもあるし、親についてもある、社会についてもくだらないTVについてもある、他人はどうにもならない、世界のくだらなさから生まれた戦争もどうにもならない、NHKの討論番組は何も解決しなくて何もよくない、良くないことだらけですが、戦争によってあるいはウイルスによって世界が結果として壊滅絶滅してしまうこともあるでしょうから、なるべく個人も世界もそうならないように努力だけはしたほうがいいと思います。

個人について考えることと世界について考えることは同じことです。つい昨日ですがいい小説を読みまして、『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』というのですが、まあいい小説ですよっていうだけのことだけ書いておいて、感想から飛躍した私の考えは、世界のありかたは個人によってなにも変わらないが、集団としての愚かさは世界のありかたを変えるということですね。SNSに代表される愚かさ、戦争によって殺し合いをやめられないことによって明示される愚かさ。愛してるけど愛してると言えない愚かさ。孤独を受け入れてしまい、そこから出たいのに出たくなどないと言ってしまう愚かさ。愚かさでまとめていいのかわかりませんが、怒りと愚かさはかなり近い場所に住んでいるような憎しみ合う近隣住民なような気がするのです。
書いていてのおもいつきです。

私は書店めぐりも趣味なので2月は東京板橋区でときわ台のいい書店で本をみていました(本屋イトマイ)。チーズケーキも食いたかったのですが、喫茶部がほぼ満席だったのであきらめました。
みつけて文庫を三冊買いましたが、その中にイーユン・リー『千年の祈り』がありました。リーの短編や長編は全部よもうと思っているのですが、まだ2冊くらいしか読んでいません。

リーは息子を自殺で失っています。そのことと作品そのものには何の関係もないはずですが、小説の題材に「子供を先に失った親」が出てくる場合は関係があるものだと読者は思ってしまいます。

しかしそのような覗き野郎の好奇心などはどうでもいいことで、個人が個人の体験をもとにしてフィクションを書き、その書かれたものが世界を変えることは、あります。純粋に個人の体験から書かれた、120%そうだ、4%そうだ、個人の体験は全くないところから生み出した、そんなこともどうでもよくて、とにかく書かれたものは世界を変えるだろう、と思います。

離れたところにいる読者を変えたということがその証拠です。

だがしかし「離れたところにいるあなたにお伝えしたい」などと書くと、とたんにそれは伝わらなくなります。アドバイスよろしく何かを書くなど愚の骨頂。

無職で時間があるなら小説でも読んでみてはどうでしょうか。きっとその場で役に立たないなあと思いますよ。でもそれを読み終わったのであればそれは純粋にそれが面白かったからであり、それ以外の理由はどうでもいいものでありますから、面白いものを読んだという経験そのものに価値があります。役には立たないしお金も生まれませんね!


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