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映画「こちらあみ子」

文中に映画の内容について言及している箇所があります。知りたくない人は読まないでください。

映画の核心となる事件が起こりますがその事件で何が起きたかは記述しないことにしました。知りたい方は原作小説か映画をみるといいです。



肯定です。この映画を肯定したいです。しかしこの映画は視聴の体験が大変苦しいものでした。なぜそうなったかを考えて、はじめはただ言葉を失ったようになにも出てこなかったのですが、そのうち、この映画において私も登場人物であったならば、寸分の迷いもなく、あみ子を排斥するほう、あみ子に何も説明しないほうの人間になっていただろう、私もそっちの側なんだ、ということが否定できないことに気がつきました。多様性とかことばで知っていたってこのざまだ、と思いました。私はあみ子を全く受け入れらないのです。そして共感できる人物が「のりくん」でありました。映画の中でのりくんが、最終的にあみ子に対する仕打ち、そうせざるを得なくなってしまうこと、それが私の態度でもあります。本当に一体誰があみ子に共感できるのでしょうか?胸に手を当てて考えたときにそれが偽善ではないと言えるような人間はいるのでしょうか?そのようなものを突き付けられて、考えざるを得ないという意味でこの映画が1900円の10倍くらいのインパクトを私に与えたのです。


映画の中、割合と序盤のうちに”事件”は起こり、あみ子はあみ子なりのやり方で思いを形にしますが、それは決定的に家族を壊していきます。この”事件”で、(おそらくは家族の人たちもそうだったと思うのですが)私もまた、あみ子の行動に意見したり、物事の道理を教えたり、何があってどうなっているかを説明したりといったことは全く無意味だと決めつけてしまいました。何をどう話したところで、それはあみ子の理解にはつながらない、そのくらいの大きい、私たちの日常にある道理からはかけ離れた、あまりに遠くてたどりつくことのできないような異次元にあみ子はいる。そのように思ってしまったのです。


しかしこれがフィクションであることを理由にして、これはお話のことだから現実とは関係ないなどと決めつけることはできません。


この世の中には、それをどのような名前やカテゴリ名で呼んでいいのかわかりませんが、道理としての倫理にたどり着かない人がいます。それを知的障害と呼ぶのか発達障害と呼ぶのか、パーソナリティ障害と呼ぶのか、わかりませんが、その「社会でほとんどの多くの人がしたがっている倫理的なコード」をどうしても理解できないのは、その人々の罪でもなければ作為でもありません。そのようなコード(ルール)を理解できない、理解して学習してそれを積み重ねていくことができないのであります。ただ、できない。

私たちの多くの、大多数の人間は、100mを12秒台で走ることなどできません。本当にできません。本当にごく一部のめぐまれた身体能力をもつ人だけが、適切なトレーニングを行い、適切な栄養を摂取して、その上でやっと高速の短距離走行が可能な域に入ることができます。

なぜそれができるのかは、「身体の組成」としかいえません。それは遺伝的に恵まれたものが合致してできあがったものです。これが「できる」理由です。

しかし、大多数の我々凡人が100mを12秒台で走れないことには、理由はありません。我々凡人は「恵まれた」偶然の組み合わせの遺伝子ではなかっただけのことで、それは悲しむことでも、差別だと怒ることでもありません。与えられたものを使って生きていくしかない。


社会の中に、私の書き方では「倫理的コード」と呼ぶもの、それを理解できない人がいます。結果としてそうなっています。理解できない、そのこと自体には理由はありません。

理由がないから責めるわけにはいかない。


他人はそのようなことを責めてはいけないのです。


そしてそのこと、責めてはいけないことが破綻をもたらすのがこの映画です。責めてはいけない、しかし説明してもわからない。じゃあどうするのか。どうにもできない。何もできない。そのままでいさせるしかない。しかしそれに耐えられるのか。

耐えられなくなったのが、最初は母であり、それから父でした。兄は直接あみ子のことではなく、家庭そのものの破綻に応じて違う道を歩みはじめました。


あみ子は変化しません。あみ子は、この社会の倫理的コードを理解しないので、「このことは言わないほうがいい」という”誰にでもわかりそうなこと”を、繰り返し家庭で話しつづけます。

誰も、あみ子に対して「そのことは言うな」とは言いません。言ったところで何も変化しないと思うからです。

学校においても、教師はあみ子に対して叱るということをしません。小学校ではまだ注意という形で指導を行おうとする教師がいました。中学では、あみ子がテスト中に不適切な行為を行っていても、教師は注意しません。他のところでやってくれと言うだけです。テストは行われており、それを放棄させて他のところでやってくれと言うわけです。そもそもテストで学習の進捗を確かめるようなことの意味があみ子には通じていないということなのかもしれません。あみ子は教室から出ていきます。


一人だけ、あみ子に対して、まるで人間に話しかけるように話かける男子がいます。


しかし彼もまたあみ子に対して何かをもたらすわけではなく、自己完結するだけの人間です。


映画がおわるまであみ子は変わらず生きており、境遇は大きく変化しますが、変わらないのはあみ子だけです。

ただあることを肯定したいのですが、それがとても難しい、なぜなら私はあみ子ではないし、あみ子を目の前にして肯定しようとして、それができるだろうか、と考えます。そして、おそらくは、できないだろう、今の私にはできないだろうと思うのです。

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