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ヴァナキュラーな共同体を生み出せるか?

妻の地元の石垣島に帰省しておりました。
京都に戻る前日に娘がインフルエンザを発症して入院になり、自宅に帰るのが1週間延期になり、なにかと大変な旅となりました。ご迷惑をおかけした方々にはお詫び申し上げます。

浅慮な思想の展開
旅の最中もずっと共同体とは何か。人々はなぜ共に過ごすことができるのか。輪郭がないのに強烈な「祈り」を共有して繋がっているような気もするなあ。
そういや宗教ってすげーな。政党を立ち上げるほどの宗教もあれば、戦争になってしまう宗教もあるなあ。などと考え続けていました。
旅をしながら入院の付き添い中にもずっと読んでいた本は、イヴァン・イリイチの『シャドウ・ワーク』で、その中の「ヴァナキュラーな価値」という項と石垣島での過ごしがリンクするところがたくさんありました。今回も忘れてしまわないようにメモを残しておきたいと思います。ご関心のある方は、拙い記事ですがお付き合いよろしくお願いいたします。

ゆいまーる
とは、沖縄の方言で、結(ゆい)+回る(まわる/循環)という共同体内の相互扶助習慣のことです。

ぼくが帰省していたころには、ちょうどハーリーという祭司が行われていました。ゆいまーるは、地元では「結」(イーとかユイ)とも言われます。地域での祭祀や日常生活(経済的な互助もある)も共同する背景に結の思想があると言われています。

ヴァナキュラー(vernacular)
イリイチのいう「ヴァナキュラー」は説明が長くなるのでこちらをご参考ください⇩

イリイチは「vernacular domain」というように「領域」という意味をくっつけて使うことがあったそうです。

旅の途中の浅慮
・ムラ(または島)で共有する「祈り」は「共生」が先行的にベースとしてあるのではないか。
・超越的な何か(プリミティブな神や人為的に制御できない自然環境など)を対象にした「祈り」は、成員個々に「祈る意味」の具体性が異なる。
・しかし、ムラ(または島)という地理的/物理的、ムラの中という人脈的にも制約のある環境の中で、その「祈り」と、例えば「神の出現」の背景(例えば、その出現を祈った時の風景が同じ海という景色だったり、同じ場所で同じ祝詞を唱えたり聞いたりしている時間だったり、同じ行事に身体をつかって参加していたり)になる「記憶」は具体性が一致するので、親和性を保ったまま広く共有できる。
・つまり「祈りの心象」は「共に過ごす」中で蓄積された記憶が「素材」になって描かれると言っていいのか?
・同じ「世界観」や「死生観」につながるのではないか?
・共生によって自然発生的にうまれる共有できる素材を持たずに、論理や手法でもってシステマティックに対象を作り出しても、それは規則や規範、もっといえば時代の変化によって使用期限の付与が必然である「制度」や「戒律」しか生み出すことはできず持続可能性が低い。


石垣島の堆肥


まとまっていないまとめ

共同体成員それぞれが描く超越的な何かへの「具体的な祈る意味」が成員間で不一致になっていても、共に過ごしたこと、共に祈った記憶は「この場所」「この歌」「この儀式」といった風に具体的に一致することで、無自覚であっても同じ超越的な何かの中での自存と共生の感覚がある。それが「共助」(沖縄的には「ゆい」)の機能の持続につながる。それはヴァナキュラーな領域から自然発生して機能するものなので「共に過ごす」という過程を取り除いて得られるものではない。


ガレージにおちていたマンゴー


ゆるい決意

ぼくはそう思うので、引き続き、仲間と共に何かを考え行動してみることにする。
一日一日の共同活動が大切だなと思える旅になってよかった。

追記
ヴァナキュラーな領域を復興する、もしくはつくれば、その共同体においてはシャドウ・ワークの交換できない価値や自存・自尊を当然のこととして自覚し、コンヴィヴィアルな社会が成り立つのではないか?

と思ってみた。
以上メモでした。

読み返すと矛盾と浅慮がひどいなと思いますが、とりあえず残しておきます。失礼いたしました。



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