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『0メートルの旅』と非日常

カテゴリ:書籍感想

岡田悠さんの著書『0メートルの旅』が重版出来になったとご本人のツイート(ポスト)で知る。また先頃更新されたnote記事にてその経緯も語られていた。一読者として、素直に嬉しい。

*以下、勝手ながら引用をペタペタ貼らせて頂きます。悪しからずご容赦ください。

偶然ではあるのだけど、個人的に『0メートルの旅』の感想を今年の末あたりに投げようと思っていたところだった。初読は発売された頃だったので今更ではあるんだけど、いろいろあって今年改めて読み直して、感じるところが多々あったから。

前段として

旅行記や紀行文と類されるジャンルは特に、書き手の温度感にハマるかどうかがかなり大きいと思っている。一般的な小説や評論よりも“その人の世界に寄り添う”度合いが高いから。だからもともとその人を知っていたり、ファンだったりするとなお入りやすい。僕は何年前だったか、たぶんオモコロの記事で岡田さんを知り、noteなども読み、じわじわとファンになっていた。

あの日の焼きそばと「PV=C/(r-g)」、めちゃくちゃ好きだ。血反吐に塗れるような負のループの中にかすかなきらめきがあって、焼きそばの香ばしさがあって、きっとその果てにしかいない今の姿がある、みたいな語り、読みながら何度も「うわ~」と声に出してしまいたくなる。

17年前に2秒見えた海を探す、ハチャメチャに好きだ。岡田さんといえば探究心と執念の人というイメージ。回転寿司の記事でも有名だけど、「そこ追求するんだ」を目一杯やってくれる。思い出の記憶をたよりに、仮説を立て、アプリを駆使し、そして行動する。ちょっとした結果と、意外な発見と、自分なりの満足を胸に抱いて。

悲しくて心細くて、ただごはんが喉も通らないということは全然なくて、車内販売の弁当を二箱食べた。嗚咽しながら弁当二箱をかっこむ様子は、異様だったと思う。

「17年前に2秒見えた海を探す」本文より

こういところでもそうなんだけど、まっすぐなテキストの節々に挟まる岡田さんらしい生き様。少し本筋とはどこかズレたような語りを交えつつ進むのが、なんだか本当に魅力的なのだ。

積ん読期

で、肝心の『0メートルの旅』である。
僕はこの本好きだなと思っていたと同時に、実は初読では流し読みしかできておらず、うまくハマっていなかったことも正直に記しておく。これはもう読み手である僕のタイミングの問題だと思う。
あらゆる読書に言えることだけど、「今このジャンル読むタイミングじゃないな」みたいなものって個人的に結構ある。そういう時は無理して読んでもあまりのめり込めないので、機会を待つ方がよかったりもするのだ。それはまた改めて読みたい時に本屋に買いに走るのか、あるいは買うだけ買って積ん読しておくのか、一旦流し読みだけしてまた機をみてしっかり読むのか、それは人によるけど。僕は最後のタイプで、ひとまず買って流し読みをして、そして放置していた。

余談だけどまさに、岡田さんは「積ん読」に関して好意的な言及をしばしばされている。

オモコロでは「積ん読」で企画も開催されていたり(岡田さんの記事)。

それはそれとして、でもやっぱりちゃんと読みたいし、熱中できるならしたい。それはどこか思い続けていた。

で、時は流れ。
今年に入ってまた岡田さんの記事を読んだり、「旅のラジオ」を聴き始めたりしたこともあって、いよいよ岡田さんの温度感にハマってきた節があって。

満を持して、改めて『0メートルの旅』を読み直した。
よかった。べらぼうによかった。
僕はきっとこの感覚で読める瞬間を待っていたんだ。そういうことにしておこう。

本題:『0メートルの旅』感想

南極に始まり、南アフリカ、モロッコ、イスラエル、パレスチナ、イラン、ウズベキスタン、インド。国内に戻って、仙台、青ヶ島、箱根ヶ崎、国立。視点を変えて、駅前の寿司屋、郵便局、畑のフランス料理店。そして自宅の部屋でのエアロバイク。岡田さんの多彩な旅行遍歴はもちろん、貴重な体験の数々がほんとうに豊かに綴られている。

岡田さんの語りはいつもどこか温かくて、旅の失敗も成功も発見も見失いもぜんぶぜんぶ“生きている証”として肯定してくれるような魅力がある。もちろん不満はいっぱいあって。文句もちゃんと溢していて。それでも生きている。そんな中でも楽しく今がある。そんな気がする。

読み返して考えるに、旅行記というのは塩梅が難しいものだと思う。読者は必ずしも旅行情報を求めて読んでいるわけじゃない(そういうのは『地球の歩き方』とかに求めるところ)。かといって過剰なまでの自分語りや精神的なことばかり綴られてもちょっと、となってしまう。じゃあ旅先でのおもしろおかしいエピソードがいいかと言われれば、まあそれが楽しいのは確かだろうけど、おもしろくするために過剰な振る舞いをされても違う気がするし、そのために話を盛られたりしてもなぁ……となる。結局そのどれもが大切だし、どれに寄りすぎても違うのかもしれない。これはあくまで、僕の意見にしか過ぎないけど。

僕は岡田さんの語りが好きだし、気づきや発見を楽しそうに語る箇所がいいなぁと思うから、たぶんそういう意味で岡田さんの温度感が好きなんだと思う。南極でペンギンが臭かったり、南アフリカで青いツバメを探してみたり、箱根ヶ崎で何もない街並みに何かを見出してみたり。各地各所でのエピソードの豊かさも魅力いっぱいなんだけど、それはたぶん「はじめに」で綴られている、白線を踏み外したら死ぬ日だとかでかい蛇を求めて走った記憶だとか、そういうのと同じところがあって。スケールが変わっても人の本質はトライアル&エラーなのだと思う。旅とはなんだろう、という冒頭の遠大な問い。エアロバイクの旅の果てに、その答えの欠片を岡田さんは提示してくれた。

書籍タイトルでもサブワードとして冠されている「日常を引き剥がす」という言葉。初見のときあまり使わない言い回しだなと思ったのを覚えている。でも最後まで読んだらもうこれしかないと思う。エアロバイクの章の後半に「日常が身体にべったりと張りついて、当たり前になって」という上の句がある。そうなのだ。日常に張りついているんじゃない。日常が張りついているんだ。だから日常「を」「引き剥がす」んだと。

旅行記や寄稿文の書評にしばしば「読んだみんなもぜひ旅しよう」みたいな言葉が現れる。感動やワクワクの気持ちに誘発されて、ということだ。本当にそうだ。『0メートルの旅』もまた然り。でも本書は大仰な旅を推奨するわけでもないし、国内でも近所でも、それこそ家の中でも肯定していて、それでいて「あなたは何を?」と問うてくるかのような楽しさがある。あなたにはあなたの非日常がきっとある。それはきっと魅力的だから、大切にしよう。そう言われている気がしてうれしくなった。
何気ないおでかけが意識ひとつ気持ちひとつで浪漫に満ち溢れるなら、それはとっても素敵なことだ。

日常を引き剥がす。
自分の中で大切にしたい言葉がまたひとつ、生まれた気がする。

ありがとうございました。とても楽しかったです。みんなもぜひ買おう。そして旅に出よう。日常を引き剥がすために。


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