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毎朝2時半から新聞配達してたら、好きだった子を思い出して泣いた話

最近は新聞を取らない人も珍しくないし、夕刊なんてあちこちの新聞紙で廃止されている。要するに典型的なオールドメディアというわけだ。かくいう僕も人生で一度も新聞を定期購読したことはない。

それでもたまに自転車にのって新聞を配っている若者を見かけると、心の中でエールを送っている。

かつての僕もそうだったからだ。

もう20年以上前になるけれど、18歳で田舎から上京した際にある大手新聞社の新聞奨学生として毎日新聞配達をしていた。
新聞奨学生とは、簡単に言えば新聞配達をする代わりに学費を出してくれる制度で、家が貧乏だった僕は上京して専門学校に通うためにその制度を利用することにした。
高校時代にアルバイトをしたことがなかったので、初めての仕事、初めての一人暮らし、初めての東京と何もかもが初めてづくしの日々だった。

生活スタイルは、朝2時半に起床。仕事場に行って広告の折り込み作業をして、だいたい3時半ごろに配達する半分程度の新聞を自転車に詰めて出発する。新聞を配り終わると、一度仕事場に戻って残りの新聞を詰め込んでもう一度配りに行く。6時過ぎに配達を終えて用意された朝食を取り、時間になったら学校に行く。
学校が終わったらまっすぐ仕事場に帰って、今度は夕刊の配達をして、22時前には就寝する、といった具合だろうか。

あくまでこれは基本的なケースであって、週末や連休前になると折り込む広告の量がとんでもないことになって新聞が分厚くなり、2往復では配り切れなくて3往復、ひどいときは4往復することもあった。
もちろん、真夏には汗をだくだく流しながら階段を駆け上がって配り、真冬には凍えるような寒さでかじかむ手を揉みながら広告を折り込んだ。そして新聞配達にとって最大の敵は雨と風で、ただでさえ新聞を自転車のカゴに天高く重ねて運転する不安定な状態なのに、大雨や強風を浴びながらとなると、それはもうインスタントな地獄。土砂降りの中で自転車が滑り、転倒して雨が降りしきるアスファルトに朝刊をぶちまけた時の「絶望感」は、20年以上たった今でもクリアに思い出せる。

生活環境も劣悪だった。住んでいたのは販売所から歩いて10秒くらいにある下宿の2階。部屋の鍵が南京錠で「物置に暮らしてるみたいだなー」と思った。風呂は無くてトイレは和式の共同便所だった。
極めつけは下宿の天井裏に大量のネズミが生息していることで、夜中寝ているとネズミが「ドタドタドタドタッ」とすごい勢いで走っている音が天井から響いた。
周りの人間は、正直言って少しガラの悪いおじさんばかりで、同年代の新聞奨学生は僕以外にいなかった。所長は嫌なやつで18になるまでバイトをしたことのない僕を世間知らず扱いし、やることなすこと文句をつけて、「働いたことのないやつは心配だ」と聞こえるように他の従業員に言った。

実家暮らしだったほんの1、2か月前までは、学校行って適当に授業受けて、帰ってだらだらゲームして、夜遅くまでテレビ見て寝る、という生活をしていたのに、この環境の変化はすごかった。大人になるって怖いんだなあと思った。

そんな新生活が始まって間もないころ、ぜえぜえ息を切らせながらマンションの階段を駆け上がって新聞を配っていたら、たまたま表札に書かれていた苗字が高校時代に好きだった女の子と同じだったのを見て、足が止まった。彼女の誕生日に(ギャグで)クッキーを焼いてプレゼントしたら大笑いして喜んでくれたことや、卒業式の日に泣きながらお別れの挨拶をしてくれた光景を不意に思い出し、ぽろぽろと涙が溢れた。

新聞配達は専門学校の2年間やる予定だったけれど、父親がお金を出すと言ってくれて結局1年で辞めることになった。当然、自動的に下宿も出ることになったので、生まれて初めて不動産屋で部屋探しをして引っ越すことになった。

引越の日、手配した赤帽のバンに荷物を積み込み、僕も助手席に乗って引っ越し先に向かうと、3月の最終日にもかかわらず大雪が東京に降った。やっと冬が終わって楽しい春がやってくると思ったのに、拒まれているような少し憂鬱な気持ちになった。

自転車で新聞配達をする若者を見ると、つらつらと書いたあれこれの断片をふと思い出してしまう。そして心の中で精いっぱいのエールを送っている。

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