見出し画像

マスクの落ちている街、道の駅、バス


最近のことをつらつらと。

見出し画像は、美術館で見たホワイトリード《無題 (樹脂のトルソ) 》。

湯たんぽを樹脂で型取りしたもの。
間接的にしか捉え得ない身体性。喚起される複雑で重い何かと、それに微塵も揺らぐことのない単純で明確な形。実と虚が空転したような関係。
自分の興味関心にドンピシャだった。

展示を見て回った後、関連書籍のコーナーで、惹かれた作家の図録を読む。いつものことながら、物を見るより文章を読むのに長い時間を費やした。ミリアムカーンの個展カタログ『美しすぎることへの不安』に収録されていた「美しい、無力さの記録」という評論は特に、自分の考えていること、考えたいこととリンクする面も多く、面白かった。

その日、展示だけではなく映像上映会が美術館では催されていて、それが目的で足を運んだのだった。
それぞれの作品はさておき、上映の合間に、観客の参加を重視した対話の時間が取られていて、これが肌に合わなかった。
肌に合わないというか、そもそも自分が「対話」なんてことはできない未成熟な人間だというだけのこと。別にその形式の良し悪しに云々言いたいのではない。そして自分という人間の良し悪しについても考えない。考えるまでもないし、悲しくなるので。

上映室を去ってコレクション展会場に入り、ほっと息をついた。
オブジェを見つめ、テキストを黙々と読みながら、こんな遠いコミュニケーションのために俺は美術館という場所に来るのだと、改めて深く感じ入った。




早朝の裏路地で血まみれのマスクを見た。一体何があったんだろう。アコムの前というのも想像力を掻き立てられる。
同じ街で、数年前にもちょうど同じことがあった。やけに血まみれのマスクが落ちている街だ。どんな街だ?

この路地は、とある大きな商店街の、タバコ屋がある角を脇に入ったところ。灰皿が置かれてるわけでもないが、いつもタバコを吸っている人がちらほらいる。タバコ屋のそばの路地って勝手に喫煙所認定されがち。

早朝で、周辺のオフィスへと急ぐらしき人混みが、駅前から商店街の奥のほうに揃って進んでいく。無言でタバコを吸っている白い顔たちが、その雑踏の流れを無表情に眺めている。





用もなく会った友人と、用もないしダムでも見に行こうということになり、その道中に立ち寄った道の駅にて売られていた米。
かなり頭を捻らせて何周もしてしまった気配のあるネーミング。米って頑張ったネーミングをよく見る気がするけど、生産農家さんが考えてるんだろうか。鬼美味米。素晴らしい。俺が身内なら「近所から笑われるのでマジでやめてくれ」と土下座するだろうが、身内ではないので素直に拍手を送りたい。

ところで道の駅と言うと、いつ頃からか特産品や名物グルメなんかを掲げてちょっとした観光地になっているところも増えたけれど、我々が立ち寄ったのは、山に入っていく辺りにある、紛うことなき道の駅だった。なんたって同じ敷地内には農協の建物があった。農協の何なのかは知らない、とにかく入り口には農協と書かれていたので、農協の建物ということだけはわかった。ところで農協って何者なんだろうと、友人と共に首を傾げた。時々悪いニュースでその名を見かけるのみの組織だから、フリーメイソンの仲間的なやつなのではと俺は睨んでいる。

美麗な写真に名言風のコピーが添えられた、インディーズの銀色夏生みたいなポストカードも売られていた。手編みのバッグなど、恐らくは地元の方が趣味で作られたタイプの素朴な工作品が並ぶ一角にあった。こういうの道の駅でよくあるよなあ、と見逃しかけて、いやこれは見かけたことねえよ、と引き返した。別に地元の景勝地とかを撮ってるわけではない辺り、銀色夏生感への志向性の高さが見て取れる。

というか、みんな見たことあるアレみたいな感じで書いてしまってるけど「毒にも薬にもならない写真に毒にも薬にもならない言葉が添えられたポストカード」って、本当にみんな知ってるんだろうか。書いていて不安になってきた。
あと、ああいうのを俺はなぜか勝手に銀色夏生の関連商品だと決めてかかってるけど、よく考えたら銀色夏生のクレジットを見た覚えもないし、アツい風評被害の可能性もある。でもまあ、ああいうのと銀色夏生はアマゾンだったら絶対に「これを買った人はこんなのも買ってます」となるぐらいの親和性なので、俺は悪くない。銀色夏生が悪い。
文房具屋とかで売ってた、あれ。ああいうのをせっせと買っては人生に思いを馳せる少年期を過ごした人間なのに、どうも認識が不正確である。あのコピーは誰が書いてたんだろう。グラビアに添えられるポエティックなコピーと同じぐらい素晴らしいものだと思う。

しかしアンテナショップとやらは、どこに出しても恥ずかしくない名産品ばかり各地から集めていないで、こういうのをずらりと並べてくれたらいいのに。そういう店があったらそれなりに流行りそうだ。みうらじゅん的なものというか、探偵ナイトスクープの「パラダイス」シリーズみたいな、そういうマニアックな価値ってあるじゃないですか。その手の悪趣味をくすぐってくれる物ばかり集めた店。いや流行らないか。

他にも、サウンドトラックCDが販売されていたりした。サウンドトラック? と思って詳しく見てみると、地域住民が制作・上演した、土地の歴史を題材とするミュージカル作品があり、そのサウンドトラックということだった。まったく、世の中にはありとあらゆる商品が存在するらしい。

やたらあちこちにいた男。地域のゆるキャラらしい。甲冑着てるしあんまりゆるくない。道の駅を後にし、地域の歴史館にも行ってみたら、このモデルとなった人物の紹介があった。日本初の国費留学生とかなんとか。君、そんなにすごいやつだったのか。

倉庫感ありすぎて新鮮だった展示ゾーン。





バスの車窓。バス以外ではあんまり経験することのない高さの視界が楽しい。

右折しようとするもその先の道路が混んでいて、交差点の中途半端な場所に停車してしまい、いくつもの走行車にクラクションを鳴らされていた。高い音が鳴り響くたび、数ミリしか進んでいないであろう痙攣のような微動が車体に起こる。そうして車掌さんが、「この時間帯は大変混雑しております。お急ぎのところ恐れ入ります」と言い訳のようにアナウンスする。その言動の全てに親しみを抱いた。

同じような微笑みを胸に忍ばせているだろうか、それとも神経質に苛立っているだろうかと、車内の他の乗客たちの頭を見渡す。
バスには、電車なんかにはない共同性がある。そんなことを感じながら、ちょうどこのあいだ読んだ井戸川射子の「共に明るい」のページを、頭の中で捲った。


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