見出し画像

日本の内ゲバは鎌倉幕府から(6)-時政の失脚と畠山氏の再興-

西暦1205年(元久二年)7月、尼御台・北条政子の裁量により、先月起きた畠山重忠の乱で功績のあった論功行賞が行われました。

本来であれば鎌倉殿である将軍・実朝によって行われるのですが、実朝がまだ幼いため、初代鎌倉殿・頼朝の正室であった尼御台・北条政子によって執行されました。また、実朝が成人するまでは尼御台が論功行賞を取り仕切ることも発表されました。

これは北条義時による父・北条時政への牽制ではないかと考えています。
もともと重忠の本拠である武蔵国は、時政の娘婿・平賀朝雅が国司(武蔵守)を務めていますが、今は時政がそれを代行しています。

重忠が滅びたことにより、時政が政所別当の権限を利用して勝手に領地差配を行うのを止めるため、義時が政子に根回ししたのではないでしょうか。

時政は頼朝の舅ではありますが、幕府との関わりは一御家人で、役職も「政所別当」というポジションしかありません。その比べると政子は頼朝の未亡人であり、なおかつ現職の鎌倉殿・実朝の生母です。どちらが御家人の支持を集めるかは明らかでした。

しかし、この政子の差配に不満を持っていた方が一人いらっしゃいました。時政の正室(妻)であり、政子、義時そして時房にとっては継母である「牧の方(まきのかた)」です。

騒動の勃発

同年閏7月、鎌倉に不穏な噂が流れました。時政の正室・牧の方が、自分の夫である時政を唆して、将軍・実朝を暗殺し、自分の娘婿で現在は京都守護として赴任している平賀朝雅を、次の将軍につけようと画策しているというのです。

これだけ書くと、なぜ平賀朝雅が将軍職を継げるのかという疑問を持たれる方が多くいらっしゃると思いますので、そのあたりを解説いたします。

初代鎌倉殿である源頼朝は、自分と同じ源氏の血統を持つ者の一部を「門葉(もんよう)」として特別に遇し、他の御家人とは格式を分けていました。その門葉の筆頭の地位にあったのが、朝雅の父・平賀義信でした。

平賀氏は河内源氏義光流の流れを組み、信濃国佐久郡平賀郷(長野県佐久市)を本拠としていました。平賀義信は頼朝の父・義朝に従って平治の乱を戦い、生き残った後、頼朝の行動を支えた武士でした。

平賀朝雅はその義信の次男にあたります。すなわち、源氏の血統を引いており、また門葉筆頭の位置からも、将軍職を継いでもおかしくないポジションにはあったのです。

噂は尼御台・政子の耳にも入ったので、さあ大変です。
政子は急ぎ

長沼宗政(下野小山氏・小山政光の次男)
結城朝光(同三男)
三浦義村(相模三浦氏当主)
三浦胤義(義村弟)
天野政景(頼朝腹心・天野遠景の子)


らの御家人を呼び出すと

「すぐに御所を警護し、鎌倉殿を小四郎(北条義時)の屋敷に移しまいらせよ!」

という命令を出しました。
ここでも、政子は実朝の避難先を義時の屋敷をしていることから、義時と政子はこの時を予測していたとも考えられます。

牧氏事件

先の御家人たちは御所に詰め掛けたものの実朝の姿が見えず、時政邸にいるとの報を聞いては「それはヤバイ!」と即、時政邸に踏み込み、拉致するように実朝の身柄を義時邸に移らせたのです。

「これは謀反じゃ!」

踏み込まれた時政は烈火の如くいかり、「鎌倉殿を奪った謀反人どもを討ち取る」という大義名分で鎌倉にいる御家人に触れを出しました。

しかし、思った以上に御家人が集まりませんでした。
逆に、主だった御家人は義時邸に集まり、完全迎撃体制を整えていました。
ここでも尼御台・政子の力がモノを言ったのです。

勝敗は戦う前からわかっていました。

事の決着がついた段階で、義時は時政の屋敷に向かいました。時政の屋敷も少ない人数ながら警護が固められていたため、時政邸の門前で押し問答が繰り広げられました。

それを屋敷内を巡回していた大岡時親(牧の方の兄)が見て

「馬鹿者!その御方は相模守様じゃ。無礼を働くでない」

と門番を遠ざけ、時政の居室に案内してくれました。

時政は自室に閉じこもってグッタリして憔悴していました。
部屋に入った義時が声をかけるのも躊躇うほどやつれていました。

「父上......」

「そろそろ来る頃じゃと思っておった」

義時は時政の前に座って

「なぜ、このようなことを?」

と尋ねました。
時政は首を背けて

「それはワシのセリフじゃ。いきなりワシの屋敷に入り込み、鎌倉殿を拉致したのはそなたたちではないか」
と吐き捨てるように言いました。

義時は「ふぅ」とため息を1つ吐くと

「ご存知とは思いますが、鎌倉に噂がながれております。母上が父上をそそのかし、鎌倉殿を殺害して京より武州(平賀朝雅)殿を召喚し、将軍家を継がしめんとしていると」

「埒も無い......」

「しかし、父上ならやりかねない、私はそう思いました」

「......何故じゃ」

「先の畠山重忠殿の一件があるからです」

「あれは稲毛入道の讒言に惑わされただけじゃと.......」

「本当にそうだと言い切れますか」
義時は時政の発言を遮って言葉を続けました。

「あの一件の本当の発端は、実は武州殿から母上宛に届けられた左馬助(時政の子・政範)の死に関することだったのではないのですか?」

時政の目に戸惑いの色が浮かびました。
それを見た義時は目を細めながらさらに言葉をつなげます。

「左馬助の死に、畠山六郎殿と武州殿との諍いからんでいるとして、武蔵国の軍権は畠山重忠殿が握っており、武州殿でも父上でも自由にならない。しかし畠山家の力を削いでしまえばそれが可能になる」

「相州(義時)......貴様......」
時政は腰の刀に手をかけましたが

「そして、此度の噂です!!」
と義時が声を荒げたため、その手がピタッととまりました。

「此度は鎌倉殿を亡きものにして、武州殿を将軍にしようとなさっておられる。父上、牧の方、武州殿、重忠殿謀反の時と関係している人物が皆、同じでござる!」

「......」
時政は刀から手を話しました。

「重忠殿の時はうまくやられたかもしれませんが、今回はそうはいきません。姉上(政子)がおりますからな。鎌倉殿を害し奉るようなことをすれば、姉上がどのような行動をとるか、父上ならお分かりにならないはずはない!。そうなった時、鎌倉の御家人はいったい誰を信じると御思いですか?父上か?私か?五郎(時房)か?.......いや、姉上でござろうよ」

義時がそこまでまくしたて、時政はまたガックリと腰を落とすと

「ワシをどうしようというのだ......」

「私も姉上も実の父を討とうとは思いません。よって、本拠である伊豆に帰り、隠居していただきとうございます」

「あいわかった。そちの好きにせよ」

「ご無礼仕りました」

義時は時政に一礼し、退出しました。

騒動の終結

同年閏7月20日、北条時政は政所別当職を辞して出家し、牧の方を伴って領地である伊豆国田方郡北条庄に旅立って行きました。

鎌倉幕府の政所別当は、大江広元(頼朝の腹心であり初代政所別当)と北条時政の2人体制であったため、以後は広元が政所別当職を切り盛りすることになります。また、同日を以って、義時が政所執事に就任しました。この段階でいずれは義時に別当職が継承される流れができたと言えます。

鎌倉はこれでいったん落ち着きを見せますが、この事件はまだ完全に終わってはいませんでした。もう一人の中枢人物である平賀朝雅の処分をどうするのかが決まっていませんでした。

同日、義時の屋敷に大江広元、三善康信(頼朝の腹心・問注所執事)、安達景盛(頼朝側近・安達盛長の子)らが集まってこの件を話し合いました。そして京に使いを出すことで話がまとまりました。

同年閏7月25日、使いが京に入り、事前に集められていた在京の御家人たちに幕命として「平賀朝雅を追討」が伝えられます。

翌閏7月26日、朝雅は公用で仙洞御所(後鳥羽上皇の居所)に赴き、用事を済ませて帰る前に上皇と碁を打っていましたが、そこに朝雅の家人が討ち手が攻め寄せてくることを朝雅に伝えます。

(やはり来たか......)

朝雅は、鎌倉の変事は義母・牧の方(もしくは義父・時政からか)の便りですでに知っていました。その結果、自分にも追ってが差し向けられることも想定はしていました。ただ、事態は朝雅の予想より遥かに早く進行していました。

朝雅は上皇に退出の命を出してもらい(臣下は勝手に上皇/天皇の前から退出できない)、自分の屋敷である六角東洞院(京都市中京区御射山町付近)に戻って防戦の体制を整えました。

攻め寄せたのは

平 有範(左兵衛尉/判官/一条家の家人)
後藤元清(一条家の家人)
源 親長(左衛門尉)
佐々木広綱(左衛門尉)
佐々木高重(弥太郎/広綱従兄弟)
佐々木盛綱(三郎/広綱伯父)
山内首藤通基(山内首藤経俊の子)


ら、京に何かしらの因縁を持っている御家人たちでした。

朝雅は寄せ手に対して、屋敷で必死で防戦しましたが、衆寡敵せず、松坂(京都市山科区日ノ岡付近)に撤退しようとしたところ、山内首藤通基の弓で射抜かれ、討死しました。

山内首藤通基は、源頼朝の乳母子であり、伊勢・伊賀両国の守護を務めた山内首藤経俊の嫡男です。経俊は西暦1204年(元久元年)伊勢・伊賀で勃発した三日平氏の乱を鎮圧できず、守護を解任された状態にありました。

その三日平氏の乱を鎮圧したのは平賀朝雅で、経俊の子・通基が朝雅を討つというのは、皮肉な結果としか言いようがありません。

この騒ぎは、鎌倉で起きた「御家人の権力闘争」が京にまで持ち込まれ、御家人同士の武力衝突に至った初の出来事でした。そのため、後鳥羽上皇の御不興は凄まじく、後の承久の変の遠因にもつながったとも言われています。

畠山氏の生まれ変わり

こうして畠山重忠の乱に始まり牧氏事件へと発展した一連の出来事は終わりを迎えましたが、政所執事となった義時は今回の出来事で、由緒ある秩父平氏の嫡流である畠山氏が断絶することになることに苦しみました。

そこで、畠山氏の所領は畠山重忠の未亡人(時政娘、すなわち義時の妹)に継がせたまま、源氏門葉の一人で、下野足利氏二代当主・足利義兼の長男(庶長子)である足利義純と結婚させることを考えます。

足利義純は義兼の長男ですが、母親の身分が低かった(遊女と伝わります)ため、足利氏の家督を継承するのは難しい問題がありました。しかし北条氏の娘を娶って、別家を立てれば、北条氏の後押しを受けることができ、一定の家格を維持できるという父・義兼の計算が働いたのかもしれません。

義純と畠山重忠未亡人との間に生まれた子供は畠山泰国を名乗りました。ここに秩父平氏嫡流の「平姓畠山氏」は、足利氏庶流の「源姓畠山氏」として生まれ変わりを果たします。ちなみに泰国の「泰」の字は、鎌倉幕府執権・北条泰時(義時の子)の諱を与えられています。

義兼の計算は見事にあたり、畠山氏は名門・秩父平氏の流れを受け継いだことで、足利氏庶流の中で斯波氏に注ぐ家中第2位の地位を確立しました。後に足利幕府が開かれると管領職に任ぜられる三管領の一角を担う家となるのです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?