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第2話「家督相続」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

義鎮の帰館

西暦1550年(天文十九年)二月十日、豊後の戦国大名・大友家20代当主・大友義鑑は、嫡男・義鎮を別府に湯治に向かわせ、その隙に廃嫡(後継者から外す)し、家督を三男・塩市丸に継がせようと計画しました。

そのため、義鑑は、義鎮の側衆である齋藤播磨守、小佐井大和守、津久見美作守、田口蔵人佐を呼び出し、謀略を用いてこれを殺害しようとします。

齋藤、小佐井両名は討たれますが、津久見、田口両名は誘いに乗らず、逆に大友館に討ち入って塩市丸とその生母を殺害。さらに偶然にも義鑑にも深手を負わせたものの、津久見、田口両名も殺害されるという惨劇に発展。

これを「二階崩れの変」と言います。

一方で、別府で湯治逗留でくつろいでいた義鎮は、館でそんな大変な事が起きていることに全く気づいておらず、のんびりと寛いでいました。そこへ突然、佐伯惟教(豊後栂牟礼城主)が駆けつけてきました。

突然の来訪を不快に思った義鎮は、惟教を追い返そうとしましたが、惟教が津久見美作守の指図によりにここにきたことを伝えると、急ぎ面会を許しました。

「惟教。役目大義。して美作(津久見)の指示でここに来たとは何事ぞ」

義鎮は湯治姿のまま惟教に会うと

「申し上げます。本日夕刻、御屋形様(義鑑)、齋藤美濃守殿、小佐井大和守殿、津久見美作守殿、田口蔵人佐殿を城に召され、齋藤、小佐井御両名は無礼討ちに相成りました」

「な....」

義鎮は言葉もありませんでした。自分の腹心とも言える側衆のうち2人をいきなり失ったのです。

「して、美作と蔵人は無事か?」

「ご両人は館に出向かず、田口殿の屋敷で様子を見られていたため、難を逃れました。だが安心はできませぬ。おそらく御屋形様はご両人に討手をさし向けるであろうかと。それがしはそれをご両人に伝えたところ、津久見殿より、若殿(義鎮)様の元に向かい、このことをお知らせしてくれと」

「一体、何故の御不審ぞ.....」

「おそらくは、塩市丸様一派の策動かと」

「それに父上が乗ったと申すのか」

「此度のこと、御屋形様に招集されたのは、いずれも若殿のお側衆でござる。そのうちお二方が無礼討ちとして命を落とされた。これは御屋形様が塩市丸様への家督相続を目論見、若殿様の勢力を減退させるためとそれがしは見ております」

「塩市丸派はそこまで動いておったのか」

「若殿、お急ぎくださりませ。このままでは、若殿は廃嫡となりかねません」

「あいわかった。すぐに館に戻る。そなた、ご苦労じゃが今一度、蔵人の屋敷に戻り、美作と蔵人に伝えてくれ。くれぐれも軽挙はならぬと」

「承知仕りました」

「よし、行け」

惟教は義鎮の命を受け、府内(大分市)の田口蔵人頭の屋敷に向かいましたが、屋敷はすでにもぬけの空でした。

「さては......」

惟教は急ぎ大友館に向かいましたが、事はすでに終わっており、津久見美作守、田口蔵人佐の手によって塩市丸とその生母は殺害。義鑑も刀傷を受けて重体。そして津久見、田口両名も義鑑家臣の無礼討ちで死亡という有様でした。

そして殺戮の舞台となった大友館は上へ下への大騒ぎ状態。惟教はその騒動の中で義鑑重臣・小原鑑元の姿を見つけ、状況を尋ねました。

小原鑑元は大友家譜代の重臣で、当主・義鑑より諱を一字賜っており、義鑑からの信頼の厚さが伺えます。

「小原様、御屋形様のご容態は?」

「今、手当を受けておられる。だが容体は予断の許せぬ状況じゃ。それよりも市中の状況が心配じゃ」

「市中?」

「考えてもみよ。塩市丸様とその御生母様が、若殿の側近に殺害されたんだぞ。彼らを盟主と仰ぐ一派がこの混乱を利用して決起せんとも限らん」

「確かに」

「こんな時にせめて若殿がこの場におられれば......」

「その点はご案じなく、若殿はじきに別府よりお戻りになられます」

「なに?。なぜそれを早く言わぬ」

「え」

「今、言ったばかりだろう!。市中で塩市丸様一派が決起せんとも限らんのだ。奴らが塩市丸様の仇として若殿を襲い、もし若殿がご落命されたら大友家は終わりだぞ!」

「あ.....」

「勘の鈍い奴め。もう良い。そなた、これより手勢を率いて市中に赴き、若殿の身を護衛せよ。ただし、表向きは市中治安維持のための出兵じゃ。良いな」

「はっ......承知仕りました」

こうして戻ったばかりの佐伯惟教は急ぎ手勢を率いて出兵しました。

惟教は市中の要所要所に兵を駐屯させ、報告系統も隊ごとにまとめるなど、見事な用兵さばきにより、塩市丸派の暴発も特に発生することなく、また、無事、義鎮の大友館への帰還がなされました。

謎の遺書

大友館に戻った義鎮は、義鑑重臣である小原鑑元、田北鑑生、吉岡長増、臼杵鑑続、志賀親守の出迎えを受けました。そして別室に通され、そこで初めて館内で起きた血なまぐさい惨劇の内容と、その首謀者が自身の側近である津久見美作守と田口蔵人佐によって引き起こされた事実を知り、愕然とします。

自分の側近が塩市丸とその生母を殺害し、当主である父・義鑑まで刃を向けた事実は、父に対する謀反に等しいものでした。

「ともかく、父上にお見舞いを.....」

重臣たちから報告を受けた義鎮は、重体の義鑑を見舞おうと座を立とうとしました。ところが

「若殿、お待ちくださりませ」

と重臣の一人、田北鑑生がとどめました。

「先ほども申し上げましたが、御屋形様は重体でございまする。おそらく、もうお言葉を交わすこともできますまい」

「なんじゃと.....」

「それゆえ、御屋形様は我らを枕元にお呼びになり、この書を若殿に見せよと託されてございます」

と、小原鑑元が一通の書状を義鎮に渡しました。

書状には封印がなされていましたが、その封印を義鎮が解き、中を開きました。そこには、義鑑の命はもう幾ばくもないこと、我が身の命が潰えた時は、大友家の家督を速やかに義鎮に譲ること。領国経営に当たること心得が書かれてありました。

「これは父上の遺書じゃな」

書状から重臣五人に目を移して、義鎮は言いました。

「ただ、少々、できすぎておるな」

これを聞いた小原鑑元が俄然反論してきました。

「何を仰せになられます!。これは御屋形様の意向を、御屋形様自らの血と墨と混ぜたもので祐筆がしたためたもの。いわば、御屋形様の誓詞血判とも言えるものでございますぞ。それをできすぎているなど......いくら若殿とはいえ、情けない......」

「では、そなたらはこれを父上の意向を踏まえたものだと認めるのだな」

「御意」

五人全員の言葉を聞いた義鎮は

「ふむ......では、お主たち五人、父上のこの遺書に署名血判しろ」

「え?」
今度は五人が驚く番でした。義鎮は続けます。

「誠に心苦しいが、この義鎮は子供の頃より粗暴で行状が荒く、それゆえ父上の信頼も乏しい。だからこのような遺書と思しき書類を賜ったとしても、ニセモノ呼ばわりする者が出ないとも限らん。だが、父上の重臣として名高いお主たち五人が、この内容を保証すると署名血判するならば、話は別だ。この遺書はお前たち五人の責任において、履行されるべき公の書状となる」

そう言うと義鎮は、それまで手にしていた遺書を広げて床にバンと叩きつけ

「そなたたちの心に偽りあらざれば、いざ!速やかに署名血判されるべし!いかに!」

と署名血判を求めました。
ここにいた五人とは

田北鑑生(大友家庶流)
志賀親守(大友家庶流)
吉岡長増(大友家庶流)
臼杵鑑続(大友家重臣)
小原鑑元(大友家重臣)


です。彼らは義鎮の言に従い、この遺書と思しき書状に署名血判をしました。それを見届けた義鎮は

「これでよし。では、改めて父上の寝所に案内してもらおうか」

と言いました。

「二階崩れの変」により、義鑑から塩市丸への家督相続は破綻しました。なおかつ義鑑は重体で明日をもしれぬ命であることを考えると、最悪、死んだ塩市丸派によって義鑑二男・晴英が擁立され、義鎮と大友家家中を割ったお家騒動に発展する可能性がありました。

そこで、義鑑重臣の小原鑑元、田北鑑生、吉岡長増、臼杵鑑続、志賀親守の五人は、義鑑がもう会話できない容体であることを確認すると、義鎮への家督相続を望むという義鑑の遺書を偽造し、義鎮に家督相続をしてもらう筋道をつけてこの難局を乗り切ろうとしましたと私は考えています。

ところが義鎮は、自らが置かれている立場と人望のなさを十分わかっていたため、義鑑重臣五人の署名血判を以って、その正当性を強調したかったのではなかろうかと。

家督相続

義鑑重臣五人に連れられ、義鎮は義鑑の寝所を訪れました。
義鑑は息はしているものの意識はなく、田北鑑生の言う通り、会話をすることはできない状況でした。

しかし、義鎮にとってはこの状況は己が家督を相続するのにベストな状況でした。下手に意識を回復されて何か喋られては、遺書の存在が宙に浮いてしまいますので。

大友氏20代当主・大友義鑑は、この後も意識を回復することなく、「二階崩れの変」の2日後の西暦1550年(天文十九年)二月十二日、変で受けた刀傷が原因で死去しました。享年四十九。

義鎮は、義鑑の遺書を「亡くなる前の義鑑の置文」とし、この置文の内容が神仏に誓って間違いないことを義鑑重臣五人の署名血判で担保し、家臣団に公表しました。

これにより、義鎮は公明正大に大友氏21代当主として、大友家の家督と豊後、筑後、肥後の三国守護を相続したのです。

義鎮が当主として第一に行った事が、義鎮派そして塩市丸派に別れていた家臣団の統一でした。

ただ、義鑑重臣である臼杵鑑速、戸次鑑連、吉弘鑑理らの強力な後押しがあり、塩市丸派の家臣も次々と義鎮への恭順の意を示して行きました。

しかし、義鎮にはどうしても許せない家臣が一人だけいました。それは自分の傅役だった入田親誠です。彼は「二階崩れの変」が起きるとドサクサに紛れて府内を出奔していたのでした。

傅役とは本来、義鎮の陰日向となってその身を守るべき人間です。ところが義鎮の別府湯治に同伴しなかったことから、義鎮は妙な予感はしていました。実際、入田親誠はこの時、すでに塩市丸の生母に調略されていました。

義鎮は怒りのあまり

「二階崩れの変の、真の黒幕は入田丹後守(親誠)なり」

と断じ、戸次鑑連に親誠討伐を命じました。

豊後国を出奔した親誠は、隣国の肥後国(現在の熊本県)に逃げていました。阿蘇神宮の大宮司であり、同地の国人領主・阿蘇氏当主である阿蘇惟豊を頼ったのです。惟豊は親誠の義理の父でした。

惟豊は親誠が追われていることを知るとこれを保護しましたが、やがて大友家より追討軍が出ていること追討軍の大将は大友家を代表する猛将・戸次 鑑連であることを知ると

「ここで大友家と戦争になるのは得策ではない」

と判断し、自ら軍勢を送って親誠を殺害しました。

かくして、「二階崩れの変」は完全に終結しました。
大友家当主も義鑑から義鎮に移り、ここから大友家最大の繁栄が始まるのです。

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