日本の内ゲバは鎌倉幕府から(17)-承久の乱勃発-
鎌倉では実朝が暗殺された西暦1219年(建保七年/承久元年)から西暦1220年にかけての『吾妻鏡』は、おかしなことが連続で続いています。
どんだけやねん、というくらい火事が続いてます。
この2年間の間に京都の清水寺も火事で被害を受けていることから、全国的に乾燥していたのかもしれませんが、ここまで火事とか災害の記事が多い年も珍しいと思います。
世の中が不安に包まれていく中、後鳥羽の対幕府への戦争準備は静かに進められていました。
後鳥羽 ついに動く
1221年(承久三年)4月20日、時の天皇である順徳天皇は自分の第一皇子である懐成親王に皇位を譲りました。懐成親王は践祚して仲恭天皇となります。しかし、この時、仲恭天皇はわずか4歳です。
この譲位は「今、この時に4歳の幼児に皇位を譲らねばならない」事情があると考えざる得ないもので、それが父・後鳥羽上皇の対幕府戦への準備に専念するためだったのではないかと考えられております。
4月28日、後鳥羽は、順徳上皇、土御門上皇、雅成親王、頼仁親王を高陽院(里内裏の1つ)に集め、その四方を在京の武士に警護させました。
この時、在京の武士は西面の武士(後鳥羽が編成した上皇直属の武家集団)だった藤原秀康(能登守)や検非違使だった三浦胤義(三浦義村弟)らを中心に密かに集められており、その数一千騎と言われました。
一説によれば、この時、高陽院では義時調伏の祈祷が行われていたと言われます。
5月頭、後鳥羽は藤原秀康に、京都守護(鎌倉幕府京都支社)の伊賀光季ならびに大江親広(大江広元の嫡男)の追討を命じました。
後鳥羽がついに本格的に幕府に戦争を仕掛けたのです。
秀康はまず両人に出頭要請を出しました。親広はその要請を受け、鎌倉につくか、上皇につくかの決断を迫られ、上皇方に味方します。一方の光季は、秀康の出頭要請を拒否しました。
その結果、 5月14日に「流鏑馬」を目的として在京の武士に集合がかけられ、翌15日、三浦胤義らに率いられた800騎が光季の居所を襲撃しました。対する光季の手勢は35騎。
「御上に対して罪なき自分がなぜ討たれなければならないのか?」
と光季が胤義に尋ねると
「時勢に従った結果、院に召されて、そなたを討てと命令されたのだ(注:詳しいことは俺は知らんという意味)」
と胤義が答えました。
光季はこれを「朝廷勢力による幕府への追討」と受け取りました。そして寝殿に火をかけて自害して果てたのです。
この勝利を受け、後鳥羽はその日のうちに「北条義時追討の院宣」を下しました。
後鳥羽上皇の院宣
院宣の内容は坂井孝一先生が自著『承久の乱』で述べられている内容をもとに現代語訳してみます。
後鳥羽はこの院宣で義時の公的な政治権限を取り上げ、幕府の政治機能は院に帰属すると宣言しています。別段、「幕府を潰せ」とか、「義時を討て」とか直球のぶっそうな文言は一切入っていません。
ただ、「この院宣を無視して義時に味方する者は死ぬよ」とは言っています。そしてその文脈で褒美というのは「義時を討ったこと」によって生じることになります。非常にしたたかな文面と言わざる得ないです。
坂井先生は後鳥羽は幕府は義時が牛耳っており、義時を排除すれば以前の実朝の頃のように朝廷と協調路線を取れるようになるはずと考えていたと述べられています。
なお、後鳥羽はこの院宣を下記の御家人に送ったとみられています。
武田、小笠原、足利の三氏は源氏の流れであり、北条氏が幅を効かせている現状の幕府に対して不満を持っている可能性を想定されたと考えられます。
北条時房は北条氏の一門とはいえ、義時とは母親が違うため、「兄弟分断を狙ったものではないか」という坂井先生の考えはわからなくもありません。
三浦義村はすでに弟・三浦胤義が後鳥羽に忠誠を誓っているので、兄弟揃って味方するはずという目論見でしょう。
小山朝政と長沼宗政も兄弟なので、小山氏を分断牽制しています。たぶんどっちかがつけばいいと思っているんでしょう。
宇都宮頼綱は義時から謀反の嫌疑をかけられて遁世しているので、義時に恨みある人物。
この8人を選出したのはこういう理由があってのことだと思われます。
また、坂井先生の同著には、同様の内容の官宣旨(太政官が発行する命令書)も出され、五畿内、西国の御家人、寺社、荘園領主にも広く追討の令が出されたようです。
武士の軍事活動の正当性
この時代、天皇の官宣旨、院の院宣は武士の軍事活動の正当性を示すものでした。
かつて源義仲は平氏追討の院宣を受け、源頼朝も義仲追討、義経追討、藤原泰衡追討の院宣を以って、その軍事活動を正当化しました。
逆に言えば、天皇の官宣旨、院の院宣なき軍事活動はただの「私戦」と扱われ、朝廷や院からの恩賞が与えられませんでした。
1063年(永保三年)出羽清原氏の家中において内部抗争が起き、陸奥守である源義家が鎮圧しましたが、官符(太政官の命令書)なき戦いだったため「私戦」とみなされ、すべての経費や武家への恩賞は義家が自分の蓄えから出さなければならなかったという話があります。
故に、天皇の官宣旨、院の院宣による討伐は絶対であり、言い方を帰れば正邪に関係なく、官宣旨、院宣があればそれだけで「正義」と言えるものでした。
なので、後鳥羽もこの時点の義時追討において、自身の成功を全く疑わなかったと思われます。
これを受け、鎌倉がどのような対抗手段を講じたのか。それは次回に続きます。
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