第6話「仁義なき戦いのはじまり」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

義鎮が筑前と豊前の両国の守護に任ぜられる前年の西暦1558年(永禄元年)、早くも大友・毛利の同盟は破綻することになります。

毛利元就の三男・小早川隆景(小早川家当主)が大友家の持ち城である豊前門司城(福岡県北九州市門司区字古城山)を攻め落とし、九州攻略の足がかりとしたのです。

毛利が周防大内氏を滅ぼしたのは西暦1557年(弘治三年)4月ですので、その翌年には九州侵略の手を伸ばしていたことになります。

なおこの時、元就・ならびに吉川元春(元就次男・吉川家当主)は石見で尼子晴久(出雲・石見の戦国大名)と戦っていました。尼子が南下政策を取り、毛利の本拠である安芸(広島県)が脅かされる状況だったからです。

なので、対大友方面司令長官は、元就の嫡男である毛利隆元に委任され、実行部隊の現場指揮官として隆景が動いていたと思われます。

第一次門司城の戦い

西暦1558年(永禄元年)10月13日、義鎮は田原親宏(大友家有力家臣/豊後国衆で最大の実力者)を筆頭に、臼杵鑑速、戸次鑑連、吉弘鑑理らに兵一万五千を率いさせて、門司城を攻撃させました。

この門司城の戦いが、大友、毛利の間の本格的武力衝突の開始となります。
ぶっちゃけ「仁義なき戦い-戦国九州版-」の開始ですね。

元春・隆景の軍勢は門司城を出て迎撃体制をとり、対する大友勢の布陣は、田原親宏、臼杵鑑速、吉弘鑑理ら三将を最前線に布陣させていました。

一方で戸次鑑連を別働隊として豊前規矩郡大里津柳ヶ浦村(北九州市門司区大里)に着陣させ、脇からの弓矢攻撃を仕掛けていました。

鑑連の弓矢攻撃に使われているその矢には「戸次伯耆守(鑑連)がやってきたぞ」と赤字で書かれていました。

大友家中に置いて、戸次鑑連と言えば、百戦錬磨の強者であり、家中一、二を争う剛の者としてその武名は豊前、豊後に響いていました。なのでこれを見た兵たちは

「やべよ。おい、あの戸次伯耆が来てるよ」
「ひえええ、みんな死んじまうぞ」

動揺必至の状態でした。
この情報は兵から足軽組頭、足軽大将、侍大将に上がっていきまして
豊前国の国人勢は全員撤退してしまうのです。

困ったのは隆景です。

「おいおいおいおい、何、勝手に引き上げてるのじゃ!」

突然の国人勢の撤退に驚く隆景。しかしながら国人側からすれば

「あなたは安芸(広島)の人だからご存知ないとは思うが、大友の戸次伯耆と言えば、負け知らずの大友の軍神とも言うべき存在。そんな人相手にたったこれだけの兵では戦えません」

との主張で、全く折り合わず。隆景は本隊の兵の士気低下を恐れて門司城に退却します。そして大友勢四将(田原親宏、臼杵鑑速、吉弘鑑理、戸次鑑連)がゆっくりと門司城を包囲しました。

日和見の国人勢を離反させ、毛利本隊だけにして城に釘付けにする。これが大友の戦略でした。

門司城に籠城した隆景は早速、周防の兄・隆元に援軍を乞います。知らせを受けた隆元は驚愕したものの、自分に動かせる軍勢はほぼ隆景に与えているので

「急に言われても父上の本隊から軍勢を回してもらわないと無理」

と回答するしかありませんでした。

同年10月15日。大友勢が門司城に攻め寄せて2日後、隆景は門司城を脱出して周防に撤退します。国人衆の助勢無くして体勢の挽回は難しいと言う苦渋の判断でした。

これにより、門司城は再び大友氏の持ち城となりました。そしてこの翌年、西暦1559年(永禄二年)に義鎮は筑前・豊前守護職に補任され、公的に両国の治安維持活動ならびに軍事指揮権限を持つことになります。

義鎮は門司城代に怒留湯融泉(ぬるゆ ゆうせん)を置きました。毛利家に奪われた際に城代として置かれた武将でしたので、再任になります。

第二次門司城の戦い

守護職補任を受けた義鎮の最初の仕事は、先の門司城の戦いで大友を裏切って毛利に味方した国人領主の粛清でした。

西暦1559年(永禄二年)8月22日、義鎮は田原親宏、田原親賢(田原氏庶流)ら佐田隆居(豊前佐田城主)に軍勢を与えて、毛利に味方した豊前国の国人領主を攻めさせ、門司城代・怒留湯融泉は立花鑑載(筑前立花山城主当)と共に筑前の国人領主を攻めました。

すると、今度は筑前、豊前の国人領主側が、再び打倒大友を叫んで一斉挙兵し、その結果、

門司城(福岡県北九州市門司区字古城山)
花尾城(福岡県北九州市八幡西区)
香春岳城(福岡県田川郡香春町大字香春)

の三城を国人勢に奪われてしまいました。
特に門司城は筑前攻略の出兵のスキを突かれてのことで、マヌケ以外何者でもありません。

これを知った義鎮は同年9月16日、豊前の国人勢と戦い、不動岳城(福岡県京都郡みやこ町犀川大村)を落城させて手柄をあげていた田原親宏、田原親賢、佐田隆居ら豊前攻略軍に命じて、再び門司城を攻撃させました。

また、同様に毛利も門司城奪取を知ることとなり、元就は毛利隆元、小早川隆景の両名に出陣を命令。隆元は防府(山口県防府市)に入り、隆景を門司城へ進軍させています。

前年援軍がなかったばかりに泣く泣く門司城を明け渡さなければならなかった隆景は、前回のリベンジとばかりに、きっちり戦略を立てて門司城に向かっています。

それは「水軍」でした。

毛利水軍のトップである児玉就方(安芸草津城主)に命じて門司城周辺の海上封鎖を試み制海権を掌握。その上で乃美宗勝(小早川水軍のトップ)の軍勢を小倉と門司城の間に上陸させて、大友勢の迎撃体制を構築しました。

前回は隆景の軍勢+豊前国人勢だったため、国人勢を離反に追い込んで、隆景本隊を丸裸にし、撤退させた大友氏でしたが、今回は門司城内の勢力は豊前国人勢。そして今回の隆景の戦略は、毛利・小早川両水軍を駆使し、陸と海からの挟撃作戦。こうなると大友勢も真正面から戦うしかありません。

しかし、門司城は国人勢の手の内にあるため、補給の面で毛利氏が有利でした。

大友豊前攻略軍は毛利の勢力が陸海両面に帯びていることを知ると、一旦を兵を引かせ、同月26日に体制を整えて再び門司城を攻撃しました。

この時、佐田隆居が本丸に一番に攻め入って国人勢を叩き出したため、門司城は、また大友家の持ち城となりました。

隆景はこれを奪回する動きをすることなく、また退却しています。それは、同月、石見の戦いで元就が大敗することになったと無関係ではないでしょう。

義鎮は再び怒留湯融泉に門司城代を命じます。
融泉は大友に歯向かう国人領主を平定するため筑前出兵を行い、その留守中を討伐目的の国人勢に狙われて、逆に門司城を奪われるという大ポカをやらかした人間ですから、何らかの罰を与えても良さそうなものですが。

第一次、第二次門司城の戦いは大友家の勝利と終わりましたが、門司城を巡る戦いはここで終わりではありませんでした。

仁義なき戦いは続きます。


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