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一言坂の戦い
一言坂の戦い・信玄は見付を通っていた
(子どもの夏休み宿題)
1.研究の動機
「歴史探検」で、一言坂の戦いの探検に行っていないので、調べてみようと思った。
2.研究の方法
・インターネットで検索して調べる
・図書館で調べる
3.研究の内容、わかったこと
一言坂の戦いは、三方ヶ原の戦いの前しょう戦だが、信玄は次の理由で遠州に攻めてきた。
・元亀二年(1571)、北条氏康が死んだ。子の氏政へ「信玄との同盟を復活しろ」と遺言を残した。すぐに信玄と氏政は同盟を結んだ。→ 信玄は背後を心配することなく、西へ向かえた
・信玄は、健康状態が悪くなってきていた。 → 上洛するための時間が残されていない
・将軍足利義昭から上洛の御内書が届けられていた。→ 信玄が織田と戦う公式な理由
わかったこと
①一言坂の戦いはどのような理由で起こったのか
一言坂の戦いは、元亀三年(1572)十月にあった、武田軍と徳川軍の戦。
一言坂の戦いの前に、三箇野川の戦いがあった。袋井まできた武田軍と徳川軍が戦ったが、多くの武田軍に対して十分の1くらいの徳川軍の数だったので、徳川軍は浜松へ逃げることになった。
徳川軍は逃げる途中で見付宿あたりで追いつかれた。見付宿の町を焼いてその煙に紛れて徳川軍は逃げた。
しかし、磐田原台地の西のはしで、また武田軍に追いつかれた。ここでの戦いが「一言坂の戦い」である。
②一言坂の戦いの時、磐田周辺の豪族は、どの武将に味方をしていたのか
一言坂の戦いくらいから関ヶ原の戦いくらいまでの間で、磐田周辺の豪族(城)がどの武将に味方をしていたのかを年表にまとめた。
③武田信玄は磐田に来たのか
これまでの研究では、三方ヶ原の戦いの時、武田信玄の本隊は遠州の北から来たことになっていた。資料1(学習漫画 日本の伝記 武田信玄)
図書館で借りた資料2(定本徳川家康 本多隆成著) では、西から来た武田軍に信玄がいたことが書かれている。この内容について資料3(戦国静岡の城と武将と合戦と 小和田哲男著) この新設を認めている。
このため武田信玄は、三方ヶ原の戦いの前に磐田に来ていたことになる。
4.まとめ
磐田周辺の城は、今川氏が滅んだ後、徳川方になったが、信玄が西から来たことで一時的にほとんどが武田方となった。信玄が死んだ後は、すぐに徳川が取り戻していることがわかった。
磐田周辺の城跡の近くは、小学校があることもわかった。
5.感想
三方ヶ原の戦いの後、もし信玄が死ななかったら磐田周辺の城は武田のままだったと思う。
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