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研究の息抜きに2

 さっきパン屋に行って美味しそうなパンを2個買った.小腹が空いたので遅めのブレイクファーストみたいなものだ.それで,お腹が空いたというのを満たすために"実利"としてパンを購入した訳だが,私の関心は目の前のパンに向いていたわけであって.私には"価値"もあるように見えていた.チーズと砂糖の掛かった美味しそうなパン,新作のハムの挟んであるフレンチトースト・・・.自宅に持ち帰って,いま食べ終えたところだ.

 人はおそらく自分が価値を見出す事物や人に対して関心を示している.より多くの人が関心を示す事物や人というものには価値が映し出されるのだろう.さっき買ったパンも元は小麦粉と乳製品や素材としての野菜と肉であり,そのような加工されていない状態ではなかなか人から関心を示されないのかも知れない.つまり,素朴なありのままの状態の事物には関心を示されることは少なく,作られた事物,いやそれだけではなく作られた人に関心を示される傾向がどうもあるのかも知れない.
 以前,肉体労働のお仕事を始めた頃,帰り道にコンビニの駐車場でたばこを吹かしていたことがあった.ふと,足元をみると潰れた紙コップが落ちており,いわゆるただのゴミというやつなのかも知れないがその時の私には"私より役に立っている価値のある事物"として認識された.その瞬間,心の中で自分の価値がガラガラと崩れ去るように,目の前の紙コップのゴミに"負けてしまった"と感じてしまったのである.少なくとも仕事も初めてで全然できない情けない自分よりも,この紙コップの方がだれかの役に立っていると感じてしまったのである.随分と変な話かも知れないが,本当にその時はそのように感じて,その帰り道に妙な憔悴に陥っていたことを思い出す.
 それにしても,前述のパンも似たようなものだろう.この雨の降る時期に,あと3日経てば生ゴミになってしまうであろうそのパンも,私の胃と心を満たす価値のある実利として役に立ってくれていた.時間の経過とともに,空気中の酸素と触れ合って腐っていってしまうかも知れないが,少なくともさっきまで目の前にあったそのパンは役に立ってくれた.しかし,このように考えてしまう私には,それが私なりの個性の一部とも言えるのかも知れない.
 そういえば以前,某牛丼チェーン店で定食を頼んで,食べて,会計をした.私は会計を終えたときに,「ごちそうさまでした」と言う習慣が自然に身に付いているのだが,その日私が会計を終えたときにレジ脇で食べていた客が居たのだが,「金払ってんのに感謝してんだぞ,あぁいうのを上客って言うんだ」と私のことを言っていたのである.本当にその客がそう言ったのか今では確かめようがないのだが,あの日私は確かにそのような言葉を聞いたのである.
 これから察するに,私は空腹の満たせる"実利"である牛丼屋の定食に対してお金を払い更にご馳走だったと"価値"を付与しているのである.つまり,私は実利を提供された代わりに価値を提供していたのである.しかし,もしかしたら世の中には実利を得ても価値を与えない悪質な客も居るかもしれない.食べ終わって会計をするときに「ごちそうさま」を言わず「マズかったー」と言う客も居るかもしれない.果てはマズいからという理由で,お金を払わないお客さんも居たとするならばそれは実利と価値の間に滞りが発生することを意味する.というわけでもしかするとというか当たり前なのだろうが,実利を提供されていないのに価値を提供する必要はないし,価値を提供されていないのに実利を提供する必要はないというのはワンセットに違いないのである.

 実利と価値について考えてゆくときに,このようなことはどうしても考える必要がある.あなたが実利を得たいなら,あなたは価値を与えなさい.反対に,あなたが価値を得たいなら,あなたは実利を与えなさい.そういう実利と価値の間の双方向の流れがそこに循環や成長,そして繁栄を生んでゆくのかも知れない.
 生活するということ,人里で暮らすということ,あるいはお金を扱うということはそういうことがよく分かってないとダメなんだろう.

了,15min. 

※本記事の著作権は陽太に帰属します.
yohta.yingyang(at)gmail.com

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