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煙たい者同士

金曜の20時過ぎ。
おぼつかない足取りで、いつもの場所に向かう。
かかとの磨り減った合成革の靴、
汗にまみれたごちゃついた匂い。
新宿駅の真裏にポツンと置かれた喫煙所には、同年代のサラリーマン達がひしめいている。
ぼうっと何もない空を見上げる。
そういえば、ここ最近の若いヤツは会社の喫煙所に来ることは殆どない。
健康志向、ってヤツか。
酒だってそうだ、飲みニケーションなんていう言葉で煽られないとアイツらは飲み会にも来やしない。
彼女がそんなに大事か?
バリバリ仕事するのが男だろ。
最近は、そんなに女が強いんか?
ようわからへんわ。
「ほんまになあ…」
スラックスのポケットに突っ込んだ左手。
ポケットの中がほつれている。
煙草を吸い込むたび、鼻孔にメンソールが抜ける。
かじかんだ右手が、なんとなく心地良い。
一杯引っ掛けた後の煙草は、尋常じゃなくウマいのだ。
「そういや、親父もよく外で吸ってたっけな」
思えば、今吸っている煙草も親父と同じ銘柄だ。

子供の頃には全く理解できなかった、あの背中。
平日の夜は決まって、親父は住んでいたオンボロのアパート近くにある自販機に通っていた。
部屋に戻ってくるなり、そのままベランダに直行する。
わざわざ寒空の下、熱々の缶コーヒーを片手に、無言でPeaceの煙草を吹かしていた。
時たま、日曜の夜にも吸っていたような気がする。
「いっつもなんで外やねん、部屋やったらあったかいのに」
そう、不思議でたまらなかった。
無口で、頑固で、不器用な親父。
母親と5年前に離婚してから、親父は家事をするようになった。
親父が作る弁当はいつも決まった冷凍食品ばかり。
それでも、お金だけ渡される日はほとんどなかった。
いつ洗ったのかわからないような衣服がしょっちゅう洗濯機から出てきた。
それでも、俺の洗濯物は必ずその日のうちに乾かされていた。
きっと、必死に、俺を生かしてくれた。
ぬくぬくと窓越しに見る親父の背中は、いつも、とてつもなく大きかった。

そんな親父から久しぶりに電話が来たのは、2ヶ月前の11月末頃。
毎年のように年末年始も仕事が山のようにあった俺は、ほとんど実家に顔を出せていなかった。
「お前、ここんとこどないなんや。元気しとんか」
何もかもが、急だった。
「おう、まあまあやな。どないしたん、なんかあったん」
「いや、別にねえけどよお。まあ、元気しとんならええわ。せいぜいがんばりや」
本当に、短かすぎた。
それから1週間足らずのことだった、12月8日。
俺は新幹線で京都駅に到着し、すぐさまタクシーを呼んだ。
「八坂神社前あたりまで」
窓越しに見える景色が流れていく。
ただただ、流れていくのを見つめるしかなかった。
「どの辺まで行きましょか」
「ここから歩くんで、この辺りで」
軽く会釈をすると、タクシーは俺を置いてすうっと滑り出した。
ポツン、となった。
もう目の前には実家がある。
一向に、一歩が踏み出せない。
見慣れていたはずの景色が、ぼんやりとしか目に入らない。
数分後、厚手のコートのポケットが微かに震え、我に返った。
「もう着くんやろ、どこにいてるん」
たしかに母親の声だ。いつぶりか。
「もう目の前や」
「ほな、ちょっと表出るわ、待っとき」
急かせかとした足音が、電話越しに聞こえてくる。
目の前に、あの頃の母親が居た。
不意に身体が軽くなり、張り詰めていた感情が一気に緩んだ。
母親と、声を殺して泣いた。

連れて案内された奥の間には、親父が静かに眠っていた。
相変わらず、何も話さない。
いや、話せない、のか。
「あの時もっと話せばよかったな、気づけへんかったわ、俺。ごめんな」
親父の返事はなかった。
それでも、これでもかというくらい延々と続けた。
一生分の話をした。
子供の頃窓越しに見ていた、煙草を吸う親父の背中を、ふと思い出した。
「こんなだっけなあ」
冷え切った親父の背中を、何度もさすった。

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