ちょっと前の『三題噺百景』より 立川吉笑さんの三題噺レビュー

text by :a

  私が立川流の洗礼を受けたのは、談志でもなく、志の輔でもなく、談笑の弟子吉笑であった。私自身が、落語ビギナーということもあるが、私にとっての立川流は吉笑が入り口で、伝統という川を遡上する形で談志を経験している。私は吉笑の「今」と「これから」を「リアタイ」で体験できることを大変うれしく思うとともに、彼の綴る落語論から明日の落語家、落語界を期待している。


 吉笑に魅了されたのは、2021年8月9日「三題噺百景」楽日の『そうたいせい理論』がきっかけである。その日にお題が与えられ、2時間弱で作品が完成するというスリルを観客と共有しているという前提があっても、余りあるほどの緊張感を漂わせて高座にあがる吉笑を見た。ひたいに汗をにじませ、凄まじい覇気を放ちながらそれでいて、会場の客を誰一人として取りこぼさないような繊細さと包容力をもって、ストーリーが進んでいく。その語り様から、吉笑という人の生き様が浮かび上がるようで、目が、耳が、心が奪われていった。三題噺という受難を自ら引き受け、情熱を爆発的に昇華していく過程と結果を目の当たりにし、私はその体験を語る言葉を持たなかった。


 三題噺『そうたいせい理論』に与えられたお題は「アレクサ」「相対性理論」「さるすべり」であった。棋士の藤井聡太氏が名人となった近未来の話であり、師匠である杉本昌隆氏との間の師弟関係、人情噺としてまとめ上げられていた。私には、その落語の構造が3つの次元に分かれており、徐々に深部へと向かうような印象を受けた。冒頭の「アレクサ」パートでは、己の一部としてのアレクサと表層的な会話。関西に移動してからは、杉本師匠のみならず、将棋界などの重鎮もあらわれ、会話に他者性と意外性が生まれてくる(ここで「そうたいせい理論」は一旦回収される)。どんなに相手のことを理解したつもりでも、思わぬところで齟齬は生じていくが、その違いによって私の中に「他者」について考える瞬間が生まれ、私の中に根付いている「他者性」に気づく。特に師匠ともあろう人の、立ち振る舞い、物言い、におい、考えなどは、私の経験とともに蓄えられ、部分的には同化し、その内的な対象と相対するときの温かな感情は、時間や空間を超えて私の業を育み、心を抱擁し、許しを与える。


 そうして(この落語のストーリーとしては)、藤井氏は杉本氏に会いに行った。弟子の考えは師匠に悟られ、語られる。同時にまた、師匠の中に息づく「私」を見出す。これは、ただ教えを乞うような一方的な師弟関係ではなく、双方に刺激しあい認め合う同胞であることを示唆しているのではないか。筆者としての私は、この話の枕を思い出す。三遊亭白鳥の話。彼の創作落語の展開について、吉笑は見事なまでに研究をし、抽象化し自らのうちに取り込んだ。同時にまた、立川流の中でも力のあるものたちの名をあげ、自らの師匠の名を出した。立川吉笑は『現在落語論』の中で、談笑についてこう述べている。


 「五〇歳なったいまでも、談笑は落語と格闘をしていて、その姿を弟子のぼくに包み隠さず見せてくれる。勝ったときはその嬉しそうな姿を、負けたときはその悔しそうな姿を、そしてまた次をがんばろうと前向きな姿を、見せてくれるのだ。そんな師匠から、ぼくはひたすらやる気や勇気を分けてもらっている。この関係は、この先もずっと続くだろう。(省)ぼくの師匠選びは百パーセント正解だった。」


 一席をおえて高座をおりる吉祥の背中に、談笑の弟子として、立川流として、落語家としての覚悟と展望をみた。

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