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「成果を出すこと」を手放したら、人はどうなってしまうのだろう


「年功序列はやめて、入社してすぐの人でも成果が出せれば評価される会社にもっとなったらいいですよね」

つい最近こんな話をした。20代の私からすると、嬉しいワードだと思うのだけど、なんだが素直に喜べない。なんだろう?と考えてみると、「成果」という言葉が、私をいつも惑わせてくるからなのだ。

おそらくだけれど「成果を出す」ということは「顧客にもっと価値を届けよう」という側面と、「他者(組織)に自分をもっと評価されねば」という側面の両面があるように思う。

そして、どうして私はいつも「成果を出す」というワードが怖いのかというと、顧客への成果を純粋に追い求めていたはずが、気づくと「あなた/組織に評価されること」を追い求めるものに変わった経験があるからだ。

障害のない社会を創りたくて働いていたのに、あの人に評価されたいと思って働いてしまっていたお話、はじまりはじまり。

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詳細はもう思い出せないけれど、やたらと同じ失敗を繰り返してしまい、周囲の手を煩わせてしまうことがあった。もちろん、周りからの評価は下がる(逆に頑張れ!と応援していただくことも増えて、プレッシャーもあった)

そうすると、「成長しなければ」とあせり、繰り出される課題を無我夢中でやっていくうちに、「評価されるために成長する」という、目的の手段化が加速した。

ある日の対話のワーク後に、主催者の方に言われて、はっとした。
(というか、ボロボロ泣いた・・・)

「みくちゃんの人生を車に例えると、運転席に「別の誰か」が座ってて、みくちゃんは助手席にいる感じなのかな。」

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できれば、助手席には犬を乗せてたい(本音)

誰に言われたわけでもないのに、「私は〜〜ができないからダメなんだ」「もっと〜〜しなきゃ認めてもらえない」と思いすぎて、あんなに楽しかった仕事が、ワクワクしなくなってしまったことを自覚した。

「誰かに評価をされること」を意識しすぎて、なんのために働いているのか、どんな自分でありたいのか、といった部分を、どこかに落としてきてしまったようだった

本当は、自分で自分を評価できるのが一番良いし、そこから生まれた成果は本質的に自分と誰かのためになっていれば、それでいいだけのシンプルな話が、どうしてこんなにこじれてしまったのか。

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話は一番最初に戻るのだけど、そんなわけで「成果主義」は、評価とセットで語られる分、評価されることを意識しすぎて、「自分、大事なもの見失わないっすかね」とヒヤッとする。そんな時、主催者の方の言葉が続いて響く。

「でも、大事なのは、運転席のドアを開けて招き入れたのは、紛れもなくみくちゃん自身だってことだよ」

ぐさっ。

そうなのだ。この話は、評価をする人が悪いということではなく、「私が」誰かの評価を気にしていて、その環境に身をおくことを「選んでいる」のだ。それはなぜだろうか、という話は一旦置いておいても、評価を気にしすぎる状況を、無意識に自分で作り出していた。
(というか、今もよく作り出してしまっている)

私たち、評価されることに慣れすぎ問題。もっと違和感持ちたい。

だからたとえばだけど、「成果を出さねば」という考えを、手放してみたらどうなるのだろう?

いわゆる成果を出すことなんかやめて、「自分が自分らしく働く」(それは決してサボりではなく、どちらかというとライフミッションに従うイメージ)ことへエネルギーをかけてみる。

たぶん「決められた評価」で成果を出すことよりも、実はもっと難しあのではと思ったりする。正解がないし。

他者から「評価されるわけではない」けど、でも自分がワクワクするから「やってみたいこと」「ありたい姿」で生活を成り立たせたり、自分を満たしたり、継続したりすることを、やり続けてみたい。

成果や評価について、手放してみた大先輩がいたら、ぜひお話を聞いて見たいものです・・。さて、成果を手放して大丈夫かしら。と思った時に聴く曲を紹介して、唐突なおしまいを迎えます。


他の誰かになんてなれやしないよ、そんなの分かってるんだ
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Teenager Forever /King-Gnu

大城美空

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